けて、いちいち値段を当つて見るのだつた。さうしてゐるあひだにも肚のなかでは、売りさばきに持つて来た十袋の麦と老耄れた牝馬を中心に、とつおいつ思案にかき暮れてゐるのだつた。ところが娘の顔つきでは、麦粉や小麦を積んだ荷車のあひだを潜るやうにしてあちこちと歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]るのは余《あんま》りうれしくないらしかつた。彼女は、布張りの日除けの下に美々しく吊りさげられた赤いリボンだの、耳環だの、錫や銅の十字架だの、古銭の頸飾だのの方へ行きたかつたのだ。しかし、こちらにも彼女の眼を牽きつけるものはいくらでもあつた。彼女をこの上もなく笑はせたのは、ジプシイと百姓とが、痛さに悲鳴をあげながら互ひに手を敲きあつてゐるのや、酔つぱらひの猶太人が女の尻を膝で小突くのや、女の市場商人が啀《いが》みあひながら、罵る相手に※[#「虫+刺」、第4水準2−87−66]蛄《ざりがに》をつかんで投げつけてゐるのや、大露西亜人《モスカーリ》が片手で自分の山羊髯をしごきながら、片手で……。ところが彼女は不意に、誰かが自分の刺繍《ぬひ》の襦袢《ソローチカ》の袖をひつぱるのに気がついた。振りかへつて見ると、そこには例の白い長上衣《スヰートカ》を着た、眼もとのすずしい若者が突つ立つてゐた。彼女はぎくりとした。同時に、今までどんな歓びにもどんな悲しみにも、つひぞ覚えたことのないほど、胸がわくわくと躍りだした。それがまた彼女にはなんともいへぬ好い心持で、いつたい自分はどうしたといふのか、さつぱり理由《わけ》がわからなかつた。
「怖がらなくつてもいいよ、ね、怖がらなくつてもさ!」若者は娘の手をとつて、小声で言つた。「別に俺《おい》らは、お前《めえ》にいんねんをつけようといふんぢやねえからさ!」
※[#始め二重括弧、1−2−54]多分、あんたが、別段あたしに悪い言ひがかりをするのでないことは、ほんたうだらうよ。※[#終わり二重括弧、1−2−55]さう美人は胸のなかで思つた。※[#始め二重括弧、1−2−54]でも変だわ……屹度この人は悪魔よ! だつて、あたし自分でちやんと、いけないとわかつてゐながら……どうしてもこの人から手を引つ込めることが出来ないんだもの。※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 ふと父親は娘を振りかへつて、何か言はうとしたが、その時、片方から※[#始め二重括弧、1−2−54
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