て、※[#始め二重括弧、1−2−54]なあ、コプリャーン、若し神の御心で俺がこの世に亡き者となつた暁には、俺の女房をつれて行つて、自分の妻にするがよい……※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、そんなことまで言つたと物語つた。
 カテリーナの両の眼は鋭く、客の顔を突き刺すやうにそそがれた。「あつ!」と彼女は叫んだ。「これは彼奴《あいつ》だ! お父さんだ!」そして短刀を閃めかしながら客に躍りかかつて行つた。
 暫しのあひだ、その男はカテリーナの手から短刀を※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]ぎ取らうとして争つたが、つひに奪ひ取ると共に、それを振りあげざま、無残なことをして退けた、父親が気の狂つた我が娘を刺し殺してしまつたのだ。
 仰天して哥薩克たちが一斉に飛びかかつて行かうとしたが、矢庭に駒の背に跨がつた魔法使は一目散に雲を霞と逃げ去せてしまつた。

      十四

 キエフの郊外に前代未聞の奇蹟が現はれた。貴族や哥薩克の隊長たちが駈けつけて、その不思議な現象に驚異の眼を瞠つた――といふのは、突然、遠く世界の端々までが手に取るやうに見え出したのである。遥かに*リマーンの砂洲が青ずんで見え、リマーンの彼方には黒海が波を湛へてゐる。また曾て一度行つたことのある人達には、クリミヤ半島が山のやうに海面から頭をもたげてゐるのや、*シワーシュの入江がそれと認められた。
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リマーンの砂洲 南部露西亜に於ける大河の河口にある砂洲または沼沢地の名称。
シワーシュの入江 クリミヤ半島の東岸にある細長い帯状の陸地に依つてアゾフ海より距てられた内海。
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「あれはいつたい何だね?」と、蝟集した群衆が、遥かかなたの空に仄かに見える、雲かとも見紛ふ、灰いろや雪白の峯々を指さしながら、老人連に訊ねた。
「あれはカルパシヤ山脈ぢや!」と、老人たちが答へた。「あの山の中には永世、雪が消えず、いつも雲のかかつてをる峯もあるのぢや。」
 この時、また新らしい奇蹟が起つた。その一番高い山にかかつてゐた雲が飛び散ると、その頂きに、騎士の甲冑に身を固めて馬上に跨がりながら瞑目してゐる人物の姿が現はれたのだ。然も、それがつい目と鼻の先に立つてゐるやうに、まざまざと見えるのである。
 その時、怖れと驚ろきに打たれた群衆のあひだから、一人の男が馬に乗つて飛び出すなり、妙にぐるりを見まはしながら、まるで誰か自分の後を追跡する者がありはせぬかと眼を配るやうにして、ひどく狼狽《うろた》へながら、根限《こんかぎ》り馬を駆り立てて走り出した。それは、くだんの魔法使だつた。何を彼はかくも周章てふためいたのであらうか? かの山の上の不思議な騎士を一目みると、驚ろくなかれ、それは彼が、何時か占ひを立ててゐた折、不意に彼の眼前に現はれた、あの見知らぬ人物と同じ顔であつた。どうして、その顔を見ると、かくも胸騒ぎがするのか、彼は我れながら理解することが出来ず、戦々兢々として四辺を見まはしながら、薄暮が迫つて、星の輝やき出す頃まで、ひたぶるに駒を駆り立てた。やうやくのことに馬首を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]らすと、恐らく、この奇怪な出来事を悪霊の力に依つて判じようと考へたのであらう、彼は我が家を指して帰途に就いた。やがて、途中にある支流の小川を飛び越えようとした時――全速力で駈けてゐた馬が不意に立ちどまつて、彼の方へ首を捩ぢむけると、奇態なことに、笑ひ声をあげた! そして白い歯並が闇の中で光つた。魔法使の頭髪《かみのけ》は逆立つた。彼は異様な声をあげて叫ぶとともに、前後不覚に泣きだした。そこで馬首をキエフの方角へ向けて、真一文字に駈けに駈けた。彼には万象《ものみな》が、八方から彼を捕へるために追つかけて来るやうに思はれた。暗い森の樹々が、さながら生けるものの如く、黒い鬚を垂れ、長い枝を伸ばして彼を絞め殺さうとし、星は彼の先きに立つて走りながら、万人にこの極悪人を指し示すかとも思はれ、路そのものまでが、彼の跡を追つて来るやうに思はれた。
 絶望した魔法使は、キエフの霊場をさして疾駆した。

      十五

 洞窟の中には、燈明《みあかし》を前に一人の隠者がぽつねんと、聖書から眼も離さずに坐つてゐた。彼がこの洞窟に蟄居してから、もう長い年月が経つた。彼は自分で木の棺を拵らへて、夜はそれを寝床にして寝てゐた。聖《けだか》い老翁は聖書を閉ぢて祈祷を始めた……。と、その時、異様な物凄い形相の男が不意に飛びこんで来た。聖《けだか》い隠者はそのやうな人間を見ると、初めは驚愕のあまり後退《あとずさ》りをした。その男は白楊の葉のやうに全身をわなわな顫はせてゐた。不気味な流※[#「目+丐」、181−3]《ながしめ》をしてゐる両の眼からは、物凄い火花が散つた。その醜悪な顔を見ると、自づから魂が戦慄した。
「神父さま、祈つて下され、祈つて下され!」さう、絶望的にその男は叫んだ。「邪道に堕ちた霊魂のために祈つて下され!」そして彼は地に平伏《ひれふ》した。
 けだかい隠者は十字を切ると、聖書を取り上げて、それを繰りひろげたが、はつと色を失つて、後ろへ退《すさ》りながら、聖書を取り落してしまつた。「駄目ぢや、前代未聞の重罪人! お前にはみゆるしが無い! ここを立ち去れい! お前のために祈ることは出来ぬ!」
「駄目ぢやと?」罪人は、狂気のやうになつて叫んだ。
「あれを見よ、聖書の中の神聖な文字が血に染まつたではないか。つひぞこれまで、これほどの極悪人が世に現はれた例《ため》しはないのぢや!」
「神父さん! あんたは私をわらはれるのぢやな!」
「立ち去れ、呪はれたる極悪人! わしはお前を笑ひなどするのではない。ただ怖ろしいばかりぢや。お前に関はつた者に善いことはないのぢや!」
「いいや、いいや! あんたは笑つてをるのぢや、さうは言はさぬぞ……。このわしには、ちやんと見えるのぢや、汝《うぬ》が大口を開いて笑つてをるのが見える、それ、古びた歯並が仄白く見えてをるではないか!……」
 かくて、狂気のやうに躍りかかりざま、彼は神聖な隠者を殺害した。
 何ものかが苦しげに呻き声をあげた。そしてその呻きは野を越え、森を越えて、遠く伝はつて行つた。森の後ろから、長い爪の生えた手が伸びあがつた。そして、ぶるぶると顫へてから消え失せた。
 すると、彼はもはや恐怖も何も感じなかつた。彼の眼にはすべてのものが混乱して映つた。耳も頭も、まるで酒に酔つた時のやうにガンガンと鳴り、眼の前にある限りの物が、さながら蜘蛛の巣に包まれたやうに見えた。駒に跨がると彼は*カニョーフをさして真一文字に発足した。そこから*チェルカースイを経て、まつすぐにクリミヤの韃靼人の許へ赴かうと志したのだ。どうしてそんな気になつたのか、自分でも分らなかつた。彼はその日も、その次ぎの日も馬を走らせたが、行けども行けどもカニョーフの市《まち》はなかつた。路は確かに間違ひなくその路で、もう疾《とつ》くに見えなければならぬ筈のカニョーフの市《まち》が見えなかつた。遠くに、寺院の頂きが輝やき出した。しかしそれはカニョーフではなく、*シュームスクだつた。魔法使はまつたく別の方角へ進んでゐたことを知ると、愕然として色を失つた。彼は駒を返してキエフをさして走つた。すると二日目に一つの市《まち》が見えだした。しかしそれはキエフではなく、キエフからは、シュームスクより更に遠く、もはやハンガリヤに程遠からぬガリーチの市《まち》であつた。如何とも詮方なく、彼は再び駒を返したが、やはり正反対の方角へのみ進んでゐるやうに感じられた。魔法使の心中がどのやうであつたか、言ひ現はすことの出来る人は世界ぢゆうにひとりもないだらう。もし彼の胸中を去来するところのものを一目みた人には、もはや夜の眼も合はされず、笑顔ひとつすることも永久に無くなつたことだらう。それは毒念でも、恐怖でも、また兇悪な怨恨でもなかつた。それを名づくべき言葉はこの世に存在しない。彼はさながら五体を焼かれ焙られる思ひで、この全世界を馬の蹄にかけて踏みにじり、キエフからガリーチまでの土地を人畜もろとも掴み取つて黒海の只中に沈めてしまひ度いやうな気がした。けれど、それは邪念からさう思はれるのではなかつた。否、彼には自分ながら何のためとも合点がゆかなかつた。やがて、間近く眼前にカルパシヤ山脈が現はれ、クリワンの高峯が、まるで帽子でもかぶつたやうに灰いろの雲に蔽はれて聳え立つ姿を見たとき彼は全身をブルブルと顫はせた。ところが、馬は容赦なくぐんぐん駈けて、すでに山麓へとかかつた。と、叢雲がぱつと吹き払はれて、彼の目の前には、くだんの騎士が、いとも荘重に姿を現はした……。彼は馬を停めようとして激しく轡を曳き緊めたが、馬は異様な嘶き声をあげ、鬣《たてがみ》を逆立てて遮二無二、騎士を目がけて突進して行つた。すると、それまで身じろぎ一つしなかつた騎士が、その時むくむくと動き出すと同時に、かつと両眼を見開き、自分の方へ驀進して来る魔法使を眺めて笑ひ出した。それを見ると魔法使は全身が凍《い》てついてしまふやうに感じた。百雷のやうな哄笑が山々にこだまして、彼の胸を打ち、身内を震駭させた。彼は、まるで、誰か頑丈な人間が、自分の体内を歩きまはりながら、掛矢で心臓や脈管を打ちまくるやうに感じた……それほど怖ろしく、この笑ひ声が彼の内心に響いたのだ!
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カニョーフ キエフスカヤ県カニョーフ郡の首都で、ドニェープルの河港。
チェルカースイ キエフスカヤ県チェルカースイ郡の首都で、ドニェープルの河港。
シュームスク ウォルインスカヤ県下にある小都会。
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 騎士はいかめしい手で魔法使をふん掴みざま、空中高くさしあげた。途端に魔法使の息の根は絶え果てたが、死んでから彼は両眼を見開いた。既に彼は死んで、その眼差はこの世のものではなかつた。生きてゐる者や、蘇つた者は、こんな怖ろしい眼つきをしない。彼は死んだ眼で四方を見まはした。するとキエフや、ガリシヤの土地や、カルパシヤの山地から、自分の顔に瓜二つの死人どもが、うようよと立ちあがるのが見えた。
 飽くまで色あをざめ、いづれ劣らず背のひよろ長い、骨張つた亡者どもが、この物凄い獲物を手にさしあげた騎士のまはりに立ちあがつた。騎士はもう一度カラカラと打ち笑ふと共に、獲物をば深淵めがけて投げ込んだ。するとすべての亡者たちがその深淵に飛び込んで、魔法使の屍に蝟集しながら、てんでに歯を剥いてそれに喰《くら》ひついた。もう一人、どれより背が高く、どれより物凄い死人は、地中から立ちあがらうとしても、いつかな立ちあがることが出来なかつた――それほど固く、彼は地に植ゑつけられてゐたのだ。もし彼が立ちあがつたならば、カルパシヤの山々もトランシルバニヤも土耳古の国土も顛覆したことだらう。わづかに彼が身じろぎをしただけで全世界は震動し、至るところで多くの人家が倒壊して、人々が圧死を遂げた。
 時々、カルパシヤの山々で、ちやうど数千の水車場が一時に水音を立てるやうな物凄い音が聞える――それはまだ誰ひとり怖れて覗いて見たこともない、底無しの深淵《ふち》で、亡者どもが一人の死人を噛み砕く音である。時々、世界ぢゆうが隅々まで揺れ動くことがある。すると学問のある人々は、海の近くに一つの山があつて、それが火を噴き、熱湯の川を流すためだなどと言ふ。しかし、ブルガリヤやガリシヤの国にあつて、その謂はれをよく心得てゐる老人《としより》たちの話では、それは地下でぐんぐんと生長した、くだんの巨大な死人が、どうかして起きあがらうとしては、大地を揺がすためだと言ふ。

      十六

 *グルーホフの市で、ひとりの年老いた琵琶法師《バンドゥリスト》をまん中に取りかこんだ群衆が、もう一時間もその盲人の奏でる琵琶《バンドゥーラ》に聴き入つてゐる。このやうに珍らしい歌を、これほど巧みに歌ふ琵琶師《バンドゥリスト》はつひぞこれ
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