まで見なかつた。はじめ彼はサガイダーチヌイだの、フメリニーツキイだのといつた、昔の大総帥《ゲトマン》の物語をうたつた。当時は今日に比べると、まるで時勢が違つてゐた。それは哥薩克軍の黄金時代で、彼等は敵を駒の蹄にかけて踏みにじり、何人からも絶えて侮りを受けるやうなことがなかつた。老人は陽気な歌をうたひながら、まるで眼の見える人のやうに、盲いたその両眼を動かして群衆を見まはした。そして弾爪《つめ》を嵌めた彼の指は、まるで蠅のやうに弦の上を走りまはつて、さながら弦がひとりでに鳴るかとも思はれる程であつた。ぐるりの人々は、老年《としより》は首を垂れ、若者は翁をじつと見つめながら、忍び音ひとつ立てず、息を殺して聴き惚れた。
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グルーホフ チェルニゴーフスカヤ県下グルーホフ郡の首都。
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「さて、」と、翁が言つた。「今度はひとつ、古い古い昔の物語を謡つてお聞かせいたしませう。」すると群衆は一層ひしひしと、互ひに擦りよるやうにした。盲人はうたひだした。
『トランシルバニヤ侯ステパン殿は、波蘭王を兼ね給ひしが、その家臣《いへのこ》にイワン、ペトゥローなる、二人の哥薩克ありけり。この両人はさながら真《まこと》の兄弟の如く睦みあひ、※[#始め二重括弧、1−2−54]やよイワン、何事に依らず、すべて二人で分ち合はん。二人のうちいづれかに喜びあらば、その喜びを互ひに分ち、いづれかに悲しみあらば、その悲しみを共にせん。一人が獲物を得たる時は、半ばを相手に分つべし。一人が敵に囚はれなば、財《たから》のすべてを売り払ひ、必らず友を身受せん。それも叶はぬ暁は共に囚虜の苦を嘗めん。※[#終わり二重括弧、1−2−55]げにそのとほり両人は、何にもあれ、贏ち得し財《たから》を分ちあひ、掠めし牛馬を等分せり。
☆
『折しもあれステパン王は、土耳古と戦端を開きしが、激戦すでに三週に及べども、如何せん敵を駆逐すること能はざりき。それに引きかへ土耳古軍には、十人の手勢にてよく一聯隊の敵を斬り伏せるてふ、勇猛果敢の将軍《パシャ》ありき。さても、ステパン王宣して曰はく、もしもかの将軍をば、生きながらにもせよ、死屍にもせよ、今わが面前に引き来る勇士あらば、全軍に賜ふべき食禄を彼一人に与ふべしと。※[#始め二重括弧、1−2−54]やよ兄弟、いでや将軍《パシャ》をば生捕らん!※[#終わり二重括弧、1−2−55]イワンがペトゥローにかく言ふや、直ちに二人の哥薩克は、おのおの志ざす方角へ、別れ別れに発足しけり。
☆
『ペトゥローがいまだ捕へようともせぬ暇に、疾くもイワンは敵将の頸に縄うち、王《きみ》の御前に引き立てけり。※[#始め二重括弧、1−2−54]でかしたり、あつぱれなるぞ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]とステパン王は、いと打ち悦びて、彼ひとりに、全軍が賜はるに等しき扶持を与へ、尚そのうへに本人の、望みの土地の領主に封じ、欲《ねが》ひのままに家畜も与へ給ひけり。イワンは王よりの下され物を、すぐさまその場で二分して、友のペトゥローと分配せり。ペトゥローは恩賞の半ばは貰ひたれど、イワンが王より受けし如き、栄誉の分たれざりしことを、深くも心に恨みけり。
☆
『二人の騎士は主君より拝領なせし領土をさして、カルパシヤの山麓を、徐々《しづ/\》と駒を進めたり。イワンは後方《しりへ》にわが息《こ》をば、鞍に結びて乗せ行けり。はや黄昏の頃ほひなりしが、尚も先へと進み行く。稚児はすでに熟睡《うまい》して、イワンも微睡《まどろ》みはじめたり。やよ哥薩克よ、居眠るな、山路はいとも危険なり!……さはいへなべて哥薩克の、駒は道をば心得て、足を躓づき、踏み外す、憂へは更になかりけり。さて山峡に崕穴《がけ》ありて、底を極めし者もなく、この地上より天涯に達する程の奈落なり。しかも山路はその崕穴《がけ》の真上の縁を通ずるなり――二人ならばまだしもあれ、三人は並んで通り難し。今やまどろめる哥薩克を、乗せし駿馬は用心深く、その難所へとさしかかる。ペトゥローは並んで進みながらも、全身うずうずと顫きて、喜悦のために呼吸も塞がるほどなりき。やがて不意に振り向きざま、兄弟と誓ひし者を無慚にも、奈落の底へと突き落す。哀れや駒は哥薩克と、稚児もろともに深淵の、只中さして転び落つ。
☆
『されど咄嗟に哥薩克は、木の根にしかと捉まりしかば、駒のみ奈落へ落ち行けり。彼はわが息《こ》を肩に乗せ、辛くも上へ攀ぢ登り、まさに穴の縁へと辿りつき、眼をあげ見ればこはいかに、ペトゥローはきつと槍を構へ、ただ一と突きと待ちゐたり。※[#始め二重括弧、1−2−54]南無三! 生みの兄弟《はらから》とも、思ふ友がこの我に、槍を向けるとは口惜しや!……あな、兄弟《はらから》よ、我が友よ! 宿世の縁とあるからは、たとへこの身はその槍の、錆と消えんも詮なけれ。されど童子は助けてたべ、いかでか無辜の幼な児に、さる非道なる最期をば、遂げしめるべき罪科《とが》あらん。※[#終わり二重括弧、1−2−55]されどペトゥローはあざ笑ひ、槍ひきしごきイワンをば、ただ一と突きに突きければ、哥薩克と稚児は翻筋斗うち、奈落の底へと転落せり。ペトゥローはすべての財宝を、わが身ひとりで横領なし、総督《パシャ》の如くに暮しけり。ペトゥローの牧場に見る如き、馬群を持つ者さらになく、緬羊《ひつじ》の類も誰にもまし、数おびただしく飼ひゐたり。かくしてペトゥローは世を去りぬ。
☆
『ペトゥロー死すや上帝は、彼とイワンの霊魂を裁きの廷に招《め》し給ひ、※[#始め二重括弧、1−2−54]さてもこれなる人間《ひとのこ》は類ひ稀なる悪人なり。われは直ちに刑罰を、決せざればイワーニェよ! 汝みづから彼がため、欲《ねが》ひの刑を選ぶべし!※[#終わり二重括弧、1−2−55]かく宣まへばやや暫し、イワンは刑を打ち案じ、思案にくれてゐたりしが、やがて答へて申すやう、※[#始め二重括弧、1−2−54]実《げ》にやこれなる悪人は、いと大いなる害毒をわれに与へし痴者《しれもの》なり。ユダの如く友を裏切り、公明なるわが一門と、地上におけるわが子孫を絶やしたり。公明なる一門と、子孫を欠きし人間は、恰かも空しく地に落ちて、地中に滅びし麦粒の如く、絶えて芽生えることもなく――打ち棄てられしその種子に、心づくもの更になし。
☆
※[#始め二重括弧、1−2−54]神よ、然らばかく裁き給へ、残らず彼の子孫をば、地上に於いて不幸になし、最後の後裔《もの》を現世《うつしよ》にて、未だ曾て類ひなき極悪人たらしめて、彼の重ねる悪業の、一つ一つに先祖《さきおや》の亡霊どもが棺《ひつぎ》の中で安息を掻き乱され、娑婆では知られぬ苦悩を忍び、墓の中より起きあがる! されどユダなるペトゥローのみは、起きあがるべき力もなく、ためにひときは堪へ難き、業苦を嘗めて物狂ほしく、土を噛みつつ地の下で※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]き狂ふに委すべし!
☆
※[#始め二重括弧、1−2−54]やがてそやつが悪業の、最後の時の到りなば、神よ、われをばかの深淵より曳き出し、駒の背に乗せ、いと高き山顛に立たせて、その悪人をわが許に導き給へかし。さすれば我はその山の、峯よりそやつを深淵の、底をめがけて投げ込まん。そのとき彼の先祖《さきおや》の亡霊どもが生前に、おのおの住みし土地《ところ》より、伸びあがり立ちあがり、各自の受けし苦しみの、返報としてその男の、屍《かばね》に飛びつき喰《くら》ひつき、裂きつちぎりつ永遠に、噛みつづけるに委すべし。その苦しみを眺めつつ我は心を慰めん。さあれ一人かのユダなる、ペトゥローのみは彼も亦、同じ屍に噛みつかんため、地下より起ちあがらんとしても叶はず、その骸骨は時と共に、いよいよ地中で成長し、それにつれて苦しみも、益々烈しくなりまさる。この苦しみこそ彼にとり、いと残忍なる苦しみならん。復讐せんとして復讐し得ざるほど、大いなる苦しみとてはあらざればなり。※[#終わり二重括弧、1−2−55]
☆
※[#始め二重括弧、1−2−54]さても怖ろしき刑罰を、案じたるよな人間《ひとのこ》よ! さらば望みに委すべし。されども汝も永久《とこしへ》に駒の背に乗りその峯に、残る覚悟を定むべし。しかも駒に跨がりて、彼処《かしこ》に佇む日の限り、汝にもまた天国の安息《やすらひ》なきを心せよ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]かく宣まひし上帝の、言葉のままに実現せり。今に至るもカルパシヤの、峯に駒をば打ち立てて、不思議の騎士は底もなき、奈落の淵に亡霊が、あまた一つの屍《しかばね》を、噛みくだく有様と、今ひとつなる屍《しかばね》が、地中にありて次ぎ次ぎと、成長しつつ堪へ難き、苦痛に我れと我が骨を、噛みつつ大地をどよめかす、その有様を見まもるなり。……』
☆ ☆ ☆
盲人はかく歌ひ終ると、やがて、また弦の調子を合はせて、今度は*※[#始め二重括弧、1−2−54]ホマとエリョーマ※[#終わり二重括弧、1−2−55]だの、*※[#始め二重括弧、1−2−54]スツクリャール・ストコーザ※[#終わり二重括弧、1−2−55]だのといつた、滑稽ものを歌ひだしたが……しかし群衆は、老も若きもおしなべて、なほも我れに返らうとはせず、頭べを垂れて、その怖ろしき昔の出来ごとを思ひ描きつつ、しばしその場に佇んだ。
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『ホマとエリョーマ』 善良で馬鹿な二人の田舎者の滑稽な仕種を歌ひ込んだ露西亜の古い民謡。
『スツクリャール・ストコーザ』 やはり滑稽な主題を持つ古い民謡。
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[#地から2字上げ]――一八三二年――
底本:「ディカーニカ近郷夜話 後篇」岩波文庫、岩波書店
1937(昭和12)年9月15日第1刷発行
1994(平成6)年10月6日第7刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※底本の中扉には「ディカーニカ近郷夜話 後篇」の表記の左下に「蜜蜂飼ルードゥイ・パニコー著はすところの物語集」と小書きされています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「*」は訳注記号です。底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付いています。
※底本の「*」は、訳注記号と重複するため、「☆」に代えて入力しました。
※「灯」と「燈」、「糸」と「絲」は新旧関係にあるので「灯」「糸」に書き替えるべきですが、底本で混在していましたので底本通りにしました。
入力:oterudon
校正:伊藤時也
2009年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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