れば、お前の子供を斬り殺すぞ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]さういつて彼は喚きましたの……。」
そしてさめざめと泣きながら、彼女は揺籃に身を投げかけた。すると、びつくりした子供が小さい手をさしのべて、ワッと叫んだ。
さうした話を聞くと、大尉の息子は赫つとなつて憤りに燃えた。
大尉ゴロベーツィ自身もいきり立つた。
「何とでも、出来るものならやつて見ろ、呪はれた外道めが、ここへ来て、この老哥薩克の腕に力があるか無いか試して見るがよい。神様はちやんと見てござるのぢや。」と、彼は烱々たる両眼をあげて、叫んだ。「わしは逸はやく兄弟分のダニーロに手を貸さうとして駈けつけたのぢやが、是非もなや! もうその時すでに彼は、これまで多くの哥薩克どもが永遠の眠りに就いたあの同じ冷たい死の床に横たはつてゐたのぢや。そのかはり、彼のために激しい弔ひ合戦をやつた。そしてただの一人も波蘭の奴を生かしては返さなかつたのぢや。心を鎮めたがよい! わしと、わしの息子の眼の玉の黒いうちは、誰ひとりあんたを辱めることは出来んのぢや!」
かう言ひ終つて老大尉は揺籃に近寄つた。すると幼児《をさなご》は大尉が革紐に吊つてゐた、銀象嵌入りの赤い煙管とピカピカ光る燧鉄《うちがね》の入つた巾着を見て、いたいけな両手をさしのべて、にこにこと笑つた。「親爺のあとつぎぢやのう!」と、老大尉は煙管を外してその手に持たせながら言つた。「まだ揺籃のなかにをる癖に、もう煙管をくはへることを考へとるのぢや!」
カテリーナはホッと溜息をつきながら、揺籃をゆすりだした。その夜はみんないつしよに明かさうと申し合はせたが、暫らくすると一同は寝についた。カテリーナも眠りに落ちた。
家の内も外もひつそりと静かだつた。ただ夜警の哥薩克が起きてゐるばかりだつた。突然、あつと叫んでカテリーナが眼を醒ました。それについで一同も眼をあいた。「坊やが殺されてゐる、坊やが斬り殺されて!」さう叫んで、彼女は揺籃へ飛びついて行つた……。一同は揺籃を取り囲んだ。そして、揺籃の中に息絶えた幼児を見出すと、恐怖のために化石したやうになつて、誰ひとり口を開かなかつた。この言ひやうのない残虐を、どう考へてよいか知る者はなかつた。
十二
ウクライナの国境から遠く波蘭を横ぎり、繁華な*レンベルグの市《まち》を越えて、高い連峯が列をなして走つてゐる。巌の聯鎖のやうに相重畳した山々は、左右へ土壌を撥ね出し、それを岩石層で打ち固めて、怒濤あれ狂ふ荒海の浸潤に備へてゐる。この岩石の聯鎖は、ワラチヤとトランシルバニヤを過ぎ、ガリシヤとハンガリヤの中間に至つて、蹄鉄状の大塊となつてゐる。このやうな山脈は我が露西亜には無い。たうてい一目では見渡すことも出来ず、その高い峯々には人跡未踏の高峯もある。その外観は寔に異様で、さながら狂暴な荒海が広い海浜から暴風《あらし》に乗つて押し寄せ、不様な海嘯となつて打ちあがり、石に化して、空中に不動の姿のまま残留したかとも思はれ、その色が灰いろを帯びて、白い山顛のみキラキラと天日に輝やく様よりすれば、大空から重厚な雨雲が落下して、地上に累々と積み重なつたものとも観られる。このカルパシヤ山脈にいたるまでは、なほ露西亜語を耳にすることが出来、山脈の彼方でも、処によつては、祖国の言葉に似た響きが聞かれるけれど、それから先きはもう、信仰も異り、言語も違ふ。その辺には、かなり稠密にハンガリヤ人が住み、彼等は哥薩克にも劣らず、馬を駆り、劔を持つて渡り合ひ、酒も呑む。そして馬具や立派なカフターンのためには吝げもなく衣嚢《かくし》の金貨をはたき出す。山と山とのあひだには大きな盆地や湖がある。その湖はさながら玻璃板の如く微動だにせず、鏡のやうに、丸禿の山顛や緑の森を映してゐる。
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レンベルグ 墺太利領(現在は波蘭領)ガリシヤの首都。
[#ここで字下げ終わり]
だが、この夜更に――星が輝やいてゐても、ゐなくても――恐ろしく巨大な黒馬の背に跨がつて歩を進めてゆくのは何者だらう! 途方もなく脊の高い騎士が、山の麓や湖の岸を、その巨大な馬と共に微動だにせぬ水面に影像を落しながら馳ける時、果しなく大きな陰影がおどろおどろしく山々を翳してゆく。鋳鉄《てつ》の小板《こざね》がキラキラと閃めき、長劔が鞍にあたつて音を立てる。兜が揺れあがり、口髭は黒ずみ、両眼は瞑られて、睫毛が伏さつてゐる――彼はまどろんだまま、夢うつつで手綱を握つてゐるのだ。そのうしろから、同じ馬の背に跨がつた一人の稚児が、やはり眠りながら、夢中に騎士の腰にしがみついてゐる。一体これは何者で、どこへ、何のために馬を進めてゐるのだらう? それを知る者はない。彼は既に一日ならず二日ならず、山また山を越えて進んでゐる。夜が明けて日が出ると、その姿は見えなくなる。ただ時たま、山の住民どもは、山腹に何か長い陰影《かげ》がチラチラ映るのに気づくけれど、空は晴れ渡つて、雨雲ひとつ無い。夜の帳が降りかかると、再びその姿は見えはじめ、湖面に影像を落して、その後ろには陰影が顫へながらついて行く。やがて彼は多くの山々を越えて、クリワン山の頂きへと攀ぢ登つた。カルパシヤ山脈のうちで、この峯ほど高い峯はなく、さながら王者の如く群山の上に聳え立つてゐる。その山顛で駒が足を停めると、騎士はひときは深い眠りに沈んだが、見る見る叢雲が降りて彼の姿をつつんでしまつた。
十三
「しつ……静かに、婆や! そんなに敲いちや駄目、坊やが寐てるんだから。坊やは長いこと泣いてゐて、今やつと寐ついたんだから、これからあたし森へいくのよ、婆や! 何だつてお前そんなにあたしの顔をジロジロ見るのさ? お前は怖いよ。お前の眼からは鉄の釘抜がとび出してゐるわ……まあ、あんなに長い! そして火のやうに真赤に灼けてるわ! お前はてつきり妖女《ウェーヂマ》よ! ああ、お前が妖女《ウェーヂマ》なら、さつさと消えておしまひ! お前はあたしの坊やを浚つていくだらうから。あの大尉はなんて頓馬な人だらうねえ、彼《あのひと》は、あたしがこのキエフで面白い日々を送つてゐると思つてるんだわ。どうして面白いものか、うちのひとや坊やまでこつちへ来てゐて、誰が留守番をするのさ? あたし、そうつと、猫や犬にも気がつかぬくらゐ静かに出て来たんだよ。婆や、お前、若くなりたくはないかい? ちつとも難かしいことぢやないよ、ただね、踊りさへすればいいのさ。そら御覧よ、あたしが踊るから……。」カテリーナはこんなたわいもないことを口走ると、四方八方へ愚かしいまなざしを配りながら、腰に手をつがへて、もう踊りだした。甲高い声で唄を口ずさみながら、彼女はステップをふんだ。韻律もなく調子はづれに銀の踵鉄《そこがね》が鳴つた。編目《くみめ》の解けた黒髪が白い顔にパラパラと落ちかかつた。彼女は舞ひながら、まるで鳥のやうに小止みもなく手を振り、頭を揺つて、さながら力尽きて地上にばつたり倒れさうになるかと思へば、また下界から飛び去つてしまひさうにも見える。
憂はしげにたたずんだ、年老いた乳母の深い頬の皺には、涙が溢れてゐた。忠実な郎党どもも、この女主人の狂態を眺めては痛く心を打たれずにはゐられなかつた。もう、すつかり困憊しつくしたカテリーナは、自分ではゴルリッツァを踊つてゐるつもりでも、懶《ものう》げにひとつところで足踏をしてゐるだけであつた。
「若い衆さん、そら、あたし頸飾を掛けてるでしよ!」と、やがて彼女は踊りをやめて言つた。「でも、あんた達には、ないのね!……うちのひとは何処にゐて?」彼女は不意に帯の間から土耳古製の短劔を取り出しながら叫んだ。「ああ、この刀では駄目よ。」かういふと同時に、涙をはらはらとこぼし、顔には悲哀の色を浮かべて、「あたしの父の心臓はとても深くて、こんな短劔では刺しとほすことも出来ないわ。それにあの人の心臓は鉄で出来てゐるの、あの妖女《ウェーヂマ》が地獄の火で打つてやつたのさ。どうしてお父さんは来ないんだらう? もう疾《とう》に殺される時なのに、それを知らないのかしら。こちらから出かけて行くのを、待つてるのかも……」かう、言ひ終へないで、彼女は妙な笑ひ声を立てた。「わたし、とても面白い物語《おはなし》を思ひ出したわ。あたし、良人《うちのひと》が埋められた時のことを思ひ出したの。だつて、彼《あのひと》は生きたままで埋められたのぢやなくつて……。なんて、をかしなことでせう!……さあ、お聴きなさい!」さう言つて、彼女は言葉を歌に代へて唄ひ出した。
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血みどろの馬車が飛んでゆく。
馬車の中には弾丸《たま》に射ぬかれ、
劒で刺された哥薩克が横たはり、
右手に投槍を握つてゐる。
投槍からは血潮が滴たり、
血潮の川が流れてる。
川の上には篠懸があり、
篠懸の上で鴉が鳴く。
哥薩克を見送りながら母親も泣く。
泣くな、歎くな、母親よ!
お前の息子は嫁を取つた、
可愛い姫君を嫁に取つた。
美しい野原の地窖《つちあな》は、
扉もなければ窓もない。
歌はこれでおしまひ。
魚が蝦と踊つたとさ……
あたしを嫌ふ人の母さんは
顫へあがるがいい!
[#ここで字下げ終わり]
こんな風に、彼女の歌にはあらゆる歌が混り合つてゐた。もう二日のあひだ、彼女は自分の家で寝起をしてゐたが、キエフのことを耳にするのを嫌ひ、祈祷もせず、人を避けて、朝から夜おそくまで暗い密林の中を彷徨してゐるのだつた。尖つた小枝が白い顔や肩を掻きむしり、風が髻《もとどり》の解けた髪を吹きさらして、秋の落葉が足の下でガサガサ鳴るが――彼女はあらぬ方を見据ゑてゐるのだ。夕映が消えて、まだ星も見えず、月もなく、森をとほるに怖い時刻で、樹々に身を擦り小枝を掻き分けながら、洗礼を受けずに死んだ子供たちが、泣いたり笑つたりして、道や広い蕁麻《いらくさ》の茂みの中を玉のやうに転がつてゆく。ドニェープルの波の間からは、身投げをして死んだ娘たちが、列をなして浮かび出る。青い髪はおどろに両の肩へふりかかり、滴くがぽたぽたとその長い髪をつたつて地上へ落ちる。処女《をとめ》は水に濡れて、まるで硝子の肌着を著けたやうに光つてゐる。唇には怪しげな微笑が宿り、頬は情熱に燃えて、両の眼が人の心をそそる……こんな娘から恋をしかけられ、接吻をされたなら……。早く逃げよ、洗礼を受けた人たち! 彼女の唇は氷で、寝床は冷たい水中だ。彼女は君を擽《くすぐ》つて河の中へ引き込むぞ。だが、カテリーナの眼には何も映らなかつたし、正気でない彼女には水精《ルサルカ》など怖くはなかつた。彼女は夜更まで、刀を握つたまま、父を捜して駈けまはつた。
或る朝はやく、赤い波蘭服《ジュパーン》を著た、堂々たる恰幅の客が訪ねて来て、ダニーロの安否を問うた。一部始終を聴くと、彼は泣き腫した眼を袖で拭きながら、肩を窄《すぼ》めた。聞けば彼は、亡きブルリバーシュの戦友で、二人は共にクリミヤ人や土耳古人と戦つたとのこと。ダニーロがそんな果ない最期を遂げようとは夢にも思はなかつたといつて残念がるのだ。客はなほその他、さまざまなことを物語つてから、カテリーナに会ひたいと言ひ出した。
カテリーナは初めのうち、その客のいふことを少しも耳に入れなかつたが、しまひには分別あり気に、客の話に聴き入つた。彼は、ダニーロと兄弟同様に暮したことや、一度などはクリミヤ人に追はれて、叢林《くさむら》の中へ二人で隠れてゐたことがあるなどと語つた……。カテリーナは、ただじつと聴き耳を立てながら、その男から眼を離さなかつた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]奥さんは正気に返つたぞ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、彼女の顔を見ながら、郎党どもは心の中に思つた。※[#始め二重括弧、1−2−54]あの客人が奥さんを癒して呉れるに違ひない! 奥さんは、もうすつかり正気のやうに聴き入つてゐるではないか!※[#終わり二重括弧、1−2−55]
そのうちに客は、嘗てダニーロが打ち明け話をした序でに彼に向つ
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