言つた。「どうやら、もう一度、おれたちが功績を立てる時が来たらしいぞ! 哥薩克魂よ、最後に心ゆくまで楽しめ! さあ者ども、うんと浮かれるがいいぞ、おれたちの祭りが来たのだ!」
かくて山々は遊興と宴楽の巷と化した。劔が踊り、弾丸が唸り、馬が嘶きよろめく、雄叫びの声に気は遠くなり、硝煙に眼もくらんだ。両軍はごつちやに入り乱れてしまつた。しかし哥薩克は敵と味方を嗅ぎ分ける。弾丸がヒュツと音を立てるや、剽悍な騎士が馬背から転落する。長劔が一閃するや、胴をはなれた首が、とりとめもない言葉《こと》を口走りながら、地上に落ちる。
しかし、ダニーロのかぶつた哥薩克帽の赤い頂きは群集の間に見えてゐる。青いジュパーンに黄金《きん》いろの帯をしめたのが眼を射る。旋風のやうに黒馬《あを》が鬣を振る。さながら飛鳥のやうに、彼はかしこここに姿を現はし、雄叫びの声もろとも、ダマスクス製の長劔を振つて、右に左に敵を斬り伏せ、薙ぎ倒す。斬つて斬つて斬りまくれ、哥薩克! あばれまはつて、敵をやつつけろ! 逸《はや》る心の思ひの儘に。だが、黄金の馬具やジュパーンに眼を奪はれるな! 黄金や宝石は足もとに踏みにじれ! 斬れ、哥薩克! 浮かれよ、哥薩克! だが後ろを振り返つて見るがいい、非道な波蘭人がもう家に火をかけて、驚ろき騒ぐ家畜を追ひ立てて行くではないか。それと見たダニーロが、旋風のやうに後へとつて返すと、瞬く間に、その赤い頂きの帽子が家の傍に現はれて、彼をとりまく敵の群れは、見る見る疎らになつた。
一|時《とき》二|時《とき》、波蘭人と哥薩克とは交戦をつづけた。敵も味方も小勢になつた。しかしダニーロは辟易しなかつた。彼は長い槍で騎兵を鞍から突き落し、悍馬の蹄にかけて歩兵を踏み躙つた。やがて前庭は打ち払はれ、波蘭人は疾くも退散しはじめた。哥薩克どもは死者の著てゐる金色燦然たるジュパーンや高価な馬具を剥ぎ取つた。ダニーロは時を移さず追撃にかからうとして、味方を糾合するため眼をあげた……が、彼の顔は赫つと怒りの形相に変つた――彼の眼にカテリーナの父の姿が映つたのだ。奴は今しも山の頂きに立つて、小銃を擬して彼を狙つてゐる。ダニーロはそれに向つて真一文字に馬を駆つた……。ああ、哥薩克、お前は破滅に向つて突進してゆくのだ!……小銃が轟然と鳴り響いて、魔法使の姿は山の後ろへ隠れた。ただ、忠僕ステツィコの眼に、その赤い着物と奇妙な帽子がチラと見えただけである。ダニーロは馬上でよろめくとともに地上へ転落した。忠僕ステツィコは急いで主人の許へ駈けつけた。彼の主人は地上に身を伸ばし、明澄な両の眼を閉ざして横たはつてゐる。真赤な鮮血が胸もとから渾々と迸つてゐる。しかし彼は自分の忠僕に気がついたらしく、微かに瞼をあげると、その眼を輝やかして、「さらばぢや、ステツィコ! カテリーナに坊やを見棄てるなと言つて呉れい! お前たち、忠義な家来たちも彼《あれ》を見棄てないで呉れ!」さう言ひ終つて、彼は口を噤んだ。哥薩克魂がその由緒正しい五体から飛び去り、唇は蒼ざめて、彼は永遠の眠りについたのである。
忠僕は泣き泣き、カテリーナにむかつて手を振つた。「こちらへおいでなさい、奥さま、旦那さまは御酒の加減で、こんな冷たい土の上へ酔ひ潰れておしまひになられました。これあ、もう、なかなかお目醒めにはなりませんよ!」
カテリーナは驚愕のあまり、手を拍つとともに、藁束のやうに良人の屍《しかばね》の上へ倒れた。
「まあ、あなた! こんなところに、お眼を瞑つて倒れていらつしやるのがあなたでせうか? あたしの愛《いと》しい鷹、お起ちなさい、手を伸ばして下さい! 起きて下さい! せめて、もう一度あなたのカテリーナを御覧になつて下さい。ただ一言でもその唇を動かして物を仰つしやつて下さい!……でも、あなたは何にも仰つしやいませんわ、何にも、あたしの、さつぱりした旦那様! あなたのお顔はまるで黒海のやうに蒼白《あをざ》めてしまひ、あなたの心臓はぴつたり止まつてしまひましたわ! まあ、何だつてあなたはこんなに冷たいのです? あたしの熱い涙もあなたを温めることが出来ないのでせうか? どんなに大声でお呼びしても、あなたを呼び醒すことは出来ないのでせうか? これからは誰が、あなたの軍隊を率ゐてゆくでせう? 誰があなたの黒馬《あを》に跨がつて、大声叱呼しながら、哥薩克の陣頭に劔を振ふでせう? おお、哥薩克! お前たちの名誉と栄光は何処にあるのです? お前たちの名誉と栄光とは、今はもう両眼を閉ぢて冷たい土の上に横たはつてしまつた。あたしを埋めてお呉れ、この人といつしよに埋めてお呉れ! あたしの顔へ土を撒きかけてお呉れ! あたしの白い胸の上に、楓の十字架を立ててお呉れ! あたしには、今はもう美しさも要らなくなつてしまつた!」
カテリーナは身もだえして泣き悲しんだ。その時、遥か彼方から土煙を蹴立てて、老大尉ゴロベーツィが救援のために駒を乗りつけた。
十
天気の和やかな折、自由になだらかに、森と山とのあひだを洋々として流れを運ぶドニェープルは実に素晴らしい。漣も立たねば、水音も聞えぬ。一と目見ただけでは、その雄大な広い流れは動いてゐるのか静止してゐるのか見分けがつかず、全体があたかも水晶の如く、又さながら碧い鏡の道の如く、緑なす下界を貫き、無量の広さと無限の長さに、うねうねと延び拡がつてゐる。さういふ時には、灼ける太陽も心地よげに中天から光芒の足をその冷たい水晶のやうな水に浸し、水際の森も楽しげに鮮やかな影像を水に落す。緑の巻毛をもつ森! それは野花と共に水面ちかく群がつて、身をこごめながら水中を覗きこみ、飽かずおのが朗らかな眸にながめ入り、ほほ笑みかけ、枝を頷かせては会釈する。しかし、彼等にはドニェープルの中流を見ることは出来ない。太陽と碧空の外には、そこを眺め得るものがない。ドニェープルの中流までは飛んで行く鳥も稀れだ。壮麗なること! 世界ひろしといへどもこの河に匹敵する河はまたとない。暖かい夏の夜、人も獣も鳥も、万象ことごとく眠りに落ちて、ひとり神のみ厳かに天と地とを見守り、その袍の袖を荘重にはためかす時、ドニェープルは奇しくも美はしい。その袍の袖から星が撒き散らされる。星々は地球の上で光りながら、すべてがパッとドニェープルに反映する。ドニェープルはそれを残らず己が暗黒の胸に抱懐する。そして天上にて消えぬかぎり、星影は一つとしてその抱擁から逃れることは出来ぬ。玉を連ねたやうに夥しく鴉の塒する黒い森や、遠い昔から崩れたままの山々が覆ひかぶさつて、せめて、その長い影でドニェープルを翳さうとするが、それも空しい努力だ! この世にドニェープルを覆ひ匿すことの出来るものはない。紺碧の色をたたへ、洋々と氾濫して、夜半も真昼も変りなく流れてやまず、目路のつづく限り、どこまでも河である。この河が嬌《あま》えて、夜寒にヒシと岸辺に寄り添ふ時、銀いろの波がたつて、恰かもダマスクス刀の焼刄のやうにきらめいて、青々としたドニェープルは再び眠りに落ちる。さうした時のドニェープルは世にもいみじく、この河に較ぶべき河はまたとない! 更にまた、山のやうな青い雨雲が空を走り、黒い森が樹々の根本までどよめき、樫の幹が破け、稲妻が雲間に乱れて一時に全世界を照らす時、ドニェープルは世にも凄まじい光景を呈する! 丘のやうな波濤が轟々と鳴つて山裾にぶつかり、閃光と怒号につれて後へ返し、悲鳴とともに遠のき消える。それはちやうど、老いたる哥薩克の母親が、わが子を軍営に見送りつつ、悲嘆の涙に沈む様にも似てゐる。――放恣で大胆な若者は黒馬《あを》に跨がり、腰に手を当てて、横かぶりにした帽子も勇ましく、駒を進めるのであるが、母は泣き泣きその後を慕つて、息子の鐙を掴み、馬銜に捉まり、取り縋つて、熱い涙を降りそそぐ。
吠え狂ふ怒濤の間に間に、突堤の上に焼け残つた木株や石が異様に黒ずんで見えてゐる。そして一艘の小舟がもやはうとして、上下に揺れながら、ゴツンゴツンと岸にぶつかつてゐる。このやうに、ドニェープルが狂ひ立つてゐるさなかに、独木舟などを浮かべて漕ぎ出した、向ふ見ずの哥薩克はいつたい誰だらう? てつきりそいつは、ドニェープルが蠅でも呑むやうに人間を鵜呑にすることを知らぬのだらう。
やうやく小舟が繋がれると、その中から魔法使が立ち現はれた。彼は不機嫌さうな面持をしてゐる。彼は、哥薩克たちが、亡き主ダニーロのために挙げた弔ひ合戦を忌々しく思つてゐるのだ。波蘭人の蒙つた損害は甚しかつた。あらゆる馬具《ばぐ》武具《もののぐ》に身を固めた四十四人の貴族が、三十三人の奴僕と共に斬り刻まれ、残りは馬ぐるみ捕虜になつて、韃靼人に売り渡されるため、護送されて行つた。
魔法使《コルドゥーン》は焼けた切株のあひだの石段を降りて行つた。そこには地中ふかく穿たれた彼の地窖《あなぐら》があつた。彼はそつと、扉の音も密びやかに中へ入ると、布を掛けた卓子の上へ、一つの壺を置き、長い手を延ばして、何かえたいの知れぬ草をその中へ投げ入れた。そして、不思議な木の椀を手に持ち、唇を震はせて何やら呪文を唱へながら、水を掬つては、そそぎかけた。と、部屋の内にはパッと薔薇いろの光りがさして、その時の魔法使の顔は見るも物凄かつた。顔ぢゆうが真赤に上気して、ただ深い皺だけが黒く、眼はまるで火のやうに爛々と光つてゐた。無信仰な罪人め! もう疾《とう》に鬚は霜に蔽はれ、顔は皺だらけで、すつかり痩せさらばうた身を持ちながら、なほも神意に背いた悪計を企らみをるのだ。と、部屋のなかほどに白い雲がたちそめて、彼の顔には一種悦びに似た或るものが閃めいた。だが、どうしたのか突然、彼は口を開けたまま、身動きもせずに硬直してしまひ、頭髪《かみのけ》までが、針のやうに頭上で逆立つた。見れば、彼の眼の前の雲の中には、何人《なんぴと》か不思議な人の顔がぼんやり浮かび出てゐる。それはまつたく不意に現はれた招かれざる客であつた。その顔は時と共にだんだんくつきりと浮き出して、じつと彼に向つて両眼を凝らしてゐる。その顔貌《かほ》には、眉にも眼にも口許にも、何一つ魔法使には見覚えがない。生まれてこのかた初めて見る顔であつた。ちよつと見ただけでは、さして物凄いところもなかつたが、避け難い一種の恐怖が彼を襲つた。その不思議な見知らぬ顔は、雲の中から、やはりじつと彼を見詰めてゐる。やがて雲が消えると、その見知らぬ顔貌《かほ》は一際はつきりして、その鋭いまなざしを魔法使から離さなかつた。魔法使は白布のやうに蒼白《あをざ》めた。そして我にもなくけたたましい声をあげて絶叫すると同時に、彼は壺をはたきおとした……。と、すべてが消え失せてしまつた。
十一
「さあ、気を鎮めるのぢや、のう、これ!」と、老大尉ゴロベーツィが言つた。「夢が当るといふことは、滅多にあるものではないから。」
「横におなりなさいましな、お姉さま!」と、若い嫁が言つた。「易者のお婆さんを呼びませうよ。そのひとにかかつては、どんな魔力も敵ひませんわ。きつと、あなたの怯えも落してくれますわ。」
「何も怖れることはありませんよ!」と、ゴロベーツィの息子も劔を握り緊めながら、言つた。「指一本ささせることぢやないから。」
どんよりした陰鬱な眼で、カテリーナは皆んなの顔を眺めたが、直ぐには言ふべき言葉も知らなかつた。
「あたしは自分で破滅を招いたのです。囚人を逃がしたのは、あたしですもの!」と、やがて彼女は言つた。「あたしは彼《あれ》のことで心の休まる暇もないのです! もうはや十日も、あたしはこのキエフのあなた方のお側に参つてをりますけれど、悲しさはちつとも減りはしませんわ。人知れず坊やを育てて、仇討をさせようとも思ひました……。あの魔法使は、あたしの夢に、それはそれは怖ろしい姿で現はれました! どうか、あんな夢をあなた方が御覧なさらないやうに! あたしの胸はいまだに慄へてをりますわ。※[#始め二重括弧、1−2−54]カテリーナ、俺はお前がもし俺と夫婦にならなけ
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