》には鎖など、一筋としてかかつてゐないのぢや!」さう言ひながら彼は部屋のまんなかへ出た「わしは、この壁にしてからが、何の苦もなく、抜け出すことが出来るのぢやけれど、これはお前の亭主も知らぬことぢやが、この僧房の壁は、さるけだかい隠者が築いたもので、どんな邪《よこし》まな魔力を以つてしても、その聖者が自分の僧房をとざしたその同じ鍵でひらかぬかぎり、この中から囚人《めしうど》を外へ出すことは出来ぬのぢや。わしは自由の身になることができた暁には、このたとへがたない罪障に穢れた我が身のために、かういふ僧房を築くのぢや。」
「ではね、あたしあなたを出してあげませうけれど、もしや、あたしをお騙しなさるのでしたら?」さう言つて、カテリーナは扉の前に立ちどまつた。「懺悔《くひあらた》めるかはりに、また悪魔の兄弟におなりなさるやうだつたら?」
「うんにや、カテリーナ、わしはもう永くは生きられぬからだぢや。刑罰がなくとも、わしの最期はもう近いのぢや。そのわしが、更に我れと我が身を無限の業苦に落すやうな罪悪を重ねると思ふのか?」
錠前の音が響いた。「さらばちや[#「さらばちや」はママ]! 神の御恵みがお前の上にあるやうに、娘や!」さう言ひながら、魔法使は娘に接吻した。
「わたしに触らないで下さい。話に聞いたこともないやうな重罪人、早くここを立ち去りなさい!……」と、カテリーナが言つた。
しかし魔法使の姿は、もはやそこにはなかつた。
※[#始め二重括弧、1−2−54]あたしはあのひとを逃がしたのだ。※[#終わり二重括弧、1−2−55]彼女は今更のやうに驚愕して、きよときよとと四方の壁を見まはしながら呟やいた。※[#始め二重括弧、1−2−54]今となつては、良人に何と申し訳のしやうがあらう? あたしはもうおしまひだ! あたしはもう、生きながら墓に埋められるよりほかはないのだ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]彼女はさめざめと涕きながら、囚人が坐つてゐた切株の上へくづをれるやうに身を伏せた。※[#始め二重括弧、1−2−54]でも、あたしは一つの霊魂を救つたのだわ。※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、また小声で彼女は呟やいた。※[#始め二重括弧、1−2−54]あたしは神意に適つた行ひをしたのよ。だけど、良人を……あたしは初めてあのひとを欺いたのだ。ああ、あのひとにむかつて嘘をいふのはどんなに怖ろしく、どんなに難かしいことだらう! あれ、誰か来るやうだ! あつ、あのひとだわ! 良人だわ!※[#終わり二重括弧、1−2−55]さう絶望的に口走るとともに、彼女は気を失つて地上に倒れてしまつた。
七
「わたくしでございますよ、お嬢さま! わたくしでございます、いとしいお嬢さま!」さういふ声が、やつと正気に返つたカテリーナの耳許で聞えて、彼女は目の前に老婢の姿を見出した。老婆は腰をかがめて、何か囁やくやうだつたが、痩せさらばうたその手をのばして、カテリーナに冷たい水をそそいだ。
「これ、何処なの?」カテリーナは起きあがつて、あたりを見まはしながら訊ねた。「前にはドニェープルが音を立ててゐるし、後ろには山が……。まあ、婆や、お前は、いつたい、どこへあたしを連れて来たのだえ?」
「わたくしはあなた様をお連れ申したのではございません、お運び申したのでございます。このわたくしの両腕で、あの息づまるやうな地窖《つちむろ》からお運び申したのでございます。そして、旦那さまがあなた様をお仕置になつてはと存じまして、扉にはちやんと錠をおろして置きましたよ。」
「それで、鍵は何処にあるの?」さう言ひながら、カテリーナは自分の帯の辺りへ眼を走らせて、「ここにはないやうぢやないの?」
「その鍵は、旦那さまが外して持つていらつしやいましたよ、ちよつと魔法使《コルドゥーン》を見て来ると仰つしやつて、お嬢さま。」
「まあ、魔法使を見て来るといつて?……ああ、婆や、もうあたしはおしまひだよ!」と、カテリーナは喚くやうに言つた。
「なあに、お嬢さま、神さまがわたくしどもをお憐み下さいますよ! ただ何んにも仰つしやいますな、誰も気のつくことではございませんから!」
そこへ戻つて来たダニーロが、妻に近よりながら言つた。「逃げをつたぞ、あの呪はれた邪宗門めは! なあ、カテリーナ、奴は逃げをつたぞ!」
ダニーロの両眼は火のやうに燃え、長劔は腰に当つてガチャガチャと鳴りながら震へた。カテリーナの顔は死人のやうに蒼ざめた。
「誰か、逃がしたのでせうか、あなた?」と、顫へながら彼女が言つた。
「逃がしたのだ、お前の言ふとほりだよ。だが、逃がした奴は悪魔に違ひないぞ。見ろ、奴のかはりに丸太が鎖に縛られてゐるのだ。だが、悪魔にもしろ、哥薩克の拳を怖れぬとは太々《ふてぶて》しい野郎だ! 万に一つ俺の配下の哥薩克で、ほんの心持だけでも、これに関係してをると分つたなら……俺はそ奴にどんな刑罰を加へてやつたらよいか、考へ出すことも出来ぬくらゐだ!」
「もしも、それが、あたしだつたら?……」と、うつかり口を辷らしたカテリーナは、びつくりして口を覆つた。
「万一、お前がそんなことを企らんだのなら、もはやお前は俺の妻ではないぞ。俺はお前を袋の中へとぢこめてドニェープルの真只中《まつただなか》へ投げこんでしまふのだ!……」
カテリーナは、呼吸《いき》の根も止まり、頭髪《かみのけ》がそぞけだつやうに感じた。
八
国境の路にある酒場へ波蘭人が集まつて、もう二日も酒宴を開いてゐる。どうやら無頼の輩《やから》らしい。てつきり何処かへ入寇の目的で集まつたものだ。ある者は小銃を手にし、ある者は拍車の音を立て、また或る者は長劔をガチャガチャ鳴らしてゐる。首領どもは一杯機嫌で、自慢だらだら自分たちが立てた戦功を吹聴したり、正教徒を嘲けり、ウクライナの民をば自分たちの奴隷と呼びなして、勿体らしく口髭を捻つたり、傲慢らしくのけぞつて腰掛の上へ長々とからだを伸ばしたりしてゐる。その仲間に加特力僧《クションヅ》もひとり混つてゐるが、その風体が皆と同じで、正教の祭司などとはまるで似ても似つかず、一同とともに酒を呑み、浮かれ騒いで、その穢れた舌で淫らがましいことを喋り散らしてゐる。首領たちも奴僕と何ら選ぶところなく、破れた波蘭服《ジュパーン》の袖を後ろへ撥ね、あつぱれ剛の者を気取つて、さも分別顔に濶歩してゐる。骨牌を弄んでは、骨牌で鼻を打ち合ひ、ひとの女房は勝手に連れ込む。金切声、罵り合ひ!……首領どもはあらゆる狂態を演じ、いたづらの限りを尽して、猶太人の頤鬚を引つぱつたり、その異教徒の額に十字を描いたり、女たちに空砲を射ちかけたり、くだんの生臭坊主を相手に*クラコ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ャークを踊つたりしてゐる。未だかつて露西亜の国土にかくの如き汚辱を加へたものは、韃靼人にすらなかつた。恐らくは神が罪障を罰するため、かくの如き汚辱を忍ぶべく定め給うたのであらう! がやがや騒ぐ人声の中から、ドニェープルの対岸なるダニーロの屋敷や、その美しい妻の取沙汰をしてゐる話声が聞える……。かうした徒党の集まつたのは、いづれ善からぬ企らみがあつてのことに違ひない!
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クラコ※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ャーク 波蘭の国粋的な舞踊。
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九
ダニーロは居間で、卓子に肘杖をついて坐りながら、考へ込んでゐる。寝棚《レジャンカ》にはカテリーナが腰かけて歌を唄つてゐる。
「何だか妙に俺は気が滅入つてならん!」とダニーロが言つた。「それに頭が痛い、胸も疼く。何だかせつない! どうやら俺の死期も間近に迫つてゐるやうだ。」
※[#始め二重括弧、1−2−54]まあ、あたしの愛しい方! おつむをあたしにお凭《もた》せなさいまし! 何だつてあなたは、そんな不吉なことをお考へになるのです?※[#終わり二重括弧、1−2−55]かう、カテリーナは心のうちでは思つても、口にはそれと言ひ得なかつた。脛に傷もつ彼女は、良人から愛撫を受けるのも心苦しかつた。
「なあ、いいかえ、お前!」と、ダニーロは言葉をつづけた。「俺の亡きあとも、坊やを見棄てないで呉れよ。もしお前が彼《あれ》を見棄てるやうなことがあつたら、この世でもあの世でも、お前に神の恵みはないぞ。俺の骨も、じめじめした土の下で腐りながら、さぞかし辛いことだらうが、それにもまして、俺の霊魂は一層苦しむことだらう!」
「まあ、あなたとしたことが、何を仰つしやいますの? あなたはよく、あたし達のやうな弱い女をおからかひになるではありませんか? それだのに今度は御自分がか弱い女のやうなことを仰つしやいますのね。あなたはまだまだながく生き永らへて下さらなくてはなりませんわ。」
「いいや、カテリーナ、俺の魂には死の近づいたことが感じられるのだよ。世の中が何だか陰惨になつて来た。殺伐な時節がやつて来た。ああ! まざまざと昔の時代が胸に浮かぶ。だが、それも今は返らぬ夢だ! 我が軍の名誉であり光栄であつた、あの*コナシェー※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ老将もまだ健在だつたつけ! さながら俺の眼の前を哥薩克の聯隊が行進して行くやうだ! あの頃はほんとに黄金時代だつたよ、カテリーナ! 老総帥が黒馬《あを》に跨がつてゐる、その手には権標が輝やき、ぐるりには衛兵《セルデューク》の垣、四方にはザポロージェ人の赤い海が沸き立つてゐる。大総帥が口を開くと、全軍は水を打つたやうに鎮まつた。老将は我々に往昔の戦闘や、セーチのことを、想ひ出し想ひ出し物語りながら、啜り泣いたものだ。ほんとに、カテリーナ、俺たちがその頃、土耳古人どもと渡りあつた有様をお前が知つてゐたらなあ! 俺の頭には今なほ傷痕が残つてゐる。俺の体は四ヶ所も弾丸《たま》に射貫かれて、その傷のうちひとつとしてすつかり癒り切つたのはない。その当時どんなに俺たちが黄金を手に入れたことか! 哥薩克どもは宝石を帽子で掬つたものだ。どんな馬を――カテリーナ、お前がそれを知つてゐたらなあ――どんな馬を俺たちが掠奪したことか! ああ、もう俺には、あんな戦ひが出来ん! まだ、耄《ぼ》けもせず、躯《からだ》も壮健なのに、哥薩克の長劔は手から※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]ぎ取られ、なすこともなく日を送つて、我れながら何のために生きてゐるのか分らないのだ。ウクライナには秩序がなくなつて、聯隊長や副司令がまるで犬のやうに、味方同士啀み合つてゐる。てんで衆を率ゐて先頭に立つ者がないのだ。こちらの貴族階級の者は皆、波蘭の風習を学び、見やう見真似で狡獪になり……*聯合教《ウニャ》を奉じて、霊魂を売り渡してしまつたのだ。猶太教が哀れな国民を圧迫してゐる。おお時よ! 時よ! 過ぎたる時代よ! 何処へ消え失せたのか、俺の時代は? こらつ、穴倉へ行つて蜜酒を一杯もつて来い! 俺は過ぎ去つた幸福と遠い昔の思ひ出に乾杯するのだ!」
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コナシェー※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ッチ サガイダーチヌイのこと。(前篇の註参照)
聯合教《ウニャ》 羅馬教会と希臘教会との妥協聯合せる教派のこと。
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「お客には何を喰はせてやりませう、旦那? 牧場の方角から波蘭の餓鬼どもが押し寄せて参りますが!」と、母家へ入るなりステツィコが言つた。
「奴等のやつて来るわけは分つとる。」と、ダニーロが席を立ちながら口走つた。「さあ皆の者馬に鞍を置け! 武具《もののぐ》をつけろ! 刀を抜け! 鉛の輾麦《わり》を忘れず用意しろよ。お客は鄭重に迎へなきやならんから!」
だが、哥薩克たちが馬に跨がつて、まだ小銃に弾を装填《こめ》る暇もなく、波蘭軍は秋の落葉のやうに、山腹一面に群がり現はれた。
「や、鬱憤を晴らすには不足のない相手だぞ!」とダニーロは、黄金づくりの馬具を著けた駒に悠然と打ち跨がつて先頭に立つた大兵肥満の貴族どもを眺めながら、
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