たく別の方角へ進んでゐたことを知ると、愕然として色を失つた。彼は駒を返してキエフをさして走つた。すると二日目に一つの市《まち》が見えだした。しかしそれはキエフではなく、キエフからは、シュームスクより更に遠く、もはやハンガリヤに程遠からぬガリーチの市《まち》であつた。如何とも詮方なく、彼は再び駒を返したが、やはり正反対の方角へのみ進んでゐるやうに感じられた。魔法使の心中がどのやうであつたか、言ひ現はすことの出来る人は世界ぢゆうにひとりもないだらう。もし彼の胸中を去来するところのものを一目みた人には、もはや夜の眼も合はされず、笑顔ひとつすることも永久に無くなつたことだらう。それは毒念でも、恐怖でも、また兇悪な怨恨でもなかつた。それを名づくべき言葉はこの世に存在しない。彼はさながら五体を焼かれ焙られる思ひで、この全世界を馬の蹄にかけて踏みにじり、キエフからガリーチまでの土地を人畜もろとも掴み取つて黒海の只中に沈めてしまひ度いやうな気がした。けれど、それは邪念からさう思はれるのではなかつた。否、彼には自分ながら何のためとも合点がゆかなかつた。やがて、間近く眼前にカルパシヤ山脈が現はれ、クリワンの高峯が、まるで帽子でもかぶつたやうに灰いろの雲に蔽はれて聳え立つ姿を見たとき彼は全身をブルブルと顫はせた。ところが、馬は容赦なくぐんぐん駈けて、すでに山麓へとかかつた。と、叢雲がぱつと吹き払はれて、彼の目の前には、くだんの騎士が、いとも荘重に姿を現はした……。彼は馬を停めようとして激しく轡を曳き緊めたが、馬は異様な嘶き声をあげ、鬣《たてがみ》を逆立てて遮二無二、騎士を目がけて突進して行つた。すると、それまで身じろぎ一つしなかつた騎士が、その時むくむくと動き出すと同時に、かつと両眼を見開き、自分の方へ驀進して来る魔法使を眺めて笑ひ出した。それを見ると魔法使は全身が凍《い》てついてしまふやうに感じた。百雷のやうな哄笑が山々にこだまして、彼の胸を打ち、身内を震駭させた。彼は、まるで、誰か頑丈な人間が、自分の体内を歩きまはりながら、掛矢で心臓や脈管を打ちまくるやうに感じた……それほど怖ろしく、この笑ひ声が彼の内心に響いたのだ!
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カニョーフ キエフスカヤ県カニョーフ郡の首都で、ドニェープルの河港。
チェルカースイ キエフスカヤ県チェルカースイ郡の首都
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