の眼からは、物凄い火花が散つた。その醜悪な顔を見ると、自づから魂が戦慄した。
「神父さま、祈つて下され、祈つて下され!」さう、絶望的にその男は叫んだ。「邪道に堕ちた霊魂のために祈つて下され!」そして彼は地に平伏《ひれふ》した。
 けだかい隠者は十字を切ると、聖書を取り上げて、それを繰りひろげたが、はつと色を失つて、後ろへ退《すさ》りながら、聖書を取り落してしまつた。「駄目ぢや、前代未聞の重罪人! お前にはみゆるしが無い! ここを立ち去れい! お前のために祈ることは出来ぬ!」
「駄目ぢやと?」罪人は、狂気のやうになつて叫んだ。
「あれを見よ、聖書の中の神聖な文字が血に染まつたではないか。つひぞこれまで、これほどの極悪人が世に現はれた例《ため》しはないのぢや!」
「神父さん! あんたは私をわらはれるのぢやな!」
「立ち去れ、呪はれたる極悪人! わしはお前を笑ひなどするのではない。ただ怖ろしいばかりぢや。お前に関はつた者に善いことはないのぢや!」
「いいや、いいや! あんたは笑つてをるのぢや、さうは言はさぬぞ……。このわしには、ちやんと見えるのぢや、汝《うぬ》が大口を開いて笑つてをるのが見える、それ、古びた歯並が仄白く見えてをるではないか!……」
 かくて、狂気のやうに躍りかかりざま、彼は神聖な隠者を殺害した。
 何ものかが苦しげに呻き声をあげた。そしてその呻きは野を越え、森を越えて、遠く伝はつて行つた。森の後ろから、長い爪の生えた手が伸びあがつた。そして、ぶるぶると顫へてから消え失せた。
 すると、彼はもはや恐怖も何も感じなかつた。彼の眼にはすべてのものが混乱して映つた。耳も頭も、まるで酒に酔つた時のやうにガンガンと鳴り、眼の前にある限りの物が、さながら蜘蛛の巣に包まれたやうに見えた。駒に跨がると彼は*カニョーフをさして真一文字に発足した。そこから*チェルカースイを経て、まつすぐにクリミヤの韃靼人の許へ赴かうと志したのだ。どうしてそんな気になつたのか、自分でも分らなかつた。彼はその日も、その次ぎの日も馬を走らせたが、行けども行けどもカニョーフの市《まち》はなかつた。路は確かに間違ひなくその路で、もう疾《とつ》くに見えなければならぬ筈のカニョーフの市《まち》が見えなかつた。遠くに、寺院の頂きが輝やき出した。しかしそれはカニョーフではなく、*シュームスクだつた。魔法使はまつ
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