男が馬に乗つて飛び出すなり、妙にぐるりを見まはしながら、まるで誰か自分の後を追跡する者がありはせぬかと眼を配るやうにして、ひどく狼狽《うろた》へながら、根限《こんかぎ》り馬を駆り立てて走り出した。それは、くだんの魔法使だつた。何を彼はかくも周章てふためいたのであらうか? かの山の上の不思議な騎士を一目みると、驚ろくなかれ、それは彼が、何時か占ひを立ててゐた折、不意に彼の眼前に現はれた、あの見知らぬ人物と同じ顔であつた。どうして、その顔を見ると、かくも胸騒ぎがするのか、彼は我れながら理解することが出来ず、戦々兢々として四辺を見まはしながら、薄暮が迫つて、星の輝やき出す頃まで、ひたぶるに駒を駆り立てた。やうやくのことに馬首を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]らすと、恐らく、この奇怪な出来事を悪霊の力に依つて判じようと考へたのであらう、彼は我が家を指して帰途に就いた。やがて、途中にある支流の小川を飛び越えようとした時――全速力で駈けてゐた馬が不意に立ちどまつて、彼の方へ首を捩ぢむけると、奇態なことに、笑ひ声をあげた! そして白い歯並が闇の中で光つた。魔法使の頭髪《かみのけ》は逆立つた。彼は異様な声をあげて叫ぶとともに、前後不覚に泣きだした。そこで馬首をキエフの方角へ向けて、真一文字に駈けに駈けた。彼には万象《ものみな》が、八方から彼を捕へるために追つかけて来るやうに思はれた。暗い森の樹々が、さながら生けるものの如く、黒い鬚を垂れ、長い枝を伸ばして彼を絞め殺さうとし、星は彼の先きに立つて走りながら、万人にこの極悪人を指し示すかとも思はれ、路そのものまでが、彼の跡を追つて来るやうに思はれた。
 絶望した魔法使は、キエフの霊場をさして疾駆した。

      十五

 洞窟の中には、燈明《みあかし》を前に一人の隠者がぽつねんと、聖書から眼も離さずに坐つてゐた。彼がこの洞窟に蟄居してから、もう長い年月が経つた。彼は自分で木の棺を拵らへて、夜はそれを寝床にして寝てゐた。聖《けだか》い老翁は聖書を閉ぢて祈祷を始めた……。と、その時、異様な物凄い形相の男が不意に飛びこんで来た。聖《けだか》い隠者はそのやうな人間を見ると、初めは驚愕のあまり後退《あとずさ》りをした。その男は白楊の葉のやうに全身をわなわな顫はせてゐた。不気味な流※[#「目+丐」、181−3]《ながしめ》をしてゐる両
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