ものが閃めいた。だが、どうしたのか突然、彼は口を開けたまま、身動きもせずに硬直してしまひ、頭髪《かみのけ》までが、針のやうに頭上で逆立つた。見れば、彼の眼の前の雲の中には、何人《なんぴと》か不思議な人の顔がぼんやり浮かび出てゐる。それはまつたく不意に現はれた招かれざる客であつた。その顔は時と共にだんだんくつきりと浮き出して、じつと彼に向つて両眼を凝らしてゐる。その顔貌《かほ》には、眉にも眼にも口許にも、何一つ魔法使には見覚えがない。生まれてこのかた初めて見る顔であつた。ちよつと見ただけでは、さして物凄いところもなかつたが、避け難い一種の恐怖が彼を襲つた。その不思議な見知らぬ顔は、雲の中から、やはりじつと彼を見詰めてゐる。やがて雲が消えると、その見知らぬ顔貌《かほ》は一際はつきりして、その鋭いまなざしを魔法使から離さなかつた。魔法使は白布のやうに蒼白《あをざ》めた。そして我にもなくけたたましい声をあげて絶叫すると同時に、彼は壺をはたきおとした……。と、すべてが消え失せてしまつた。
十一
「さあ、気を鎮めるのぢや、のう、これ!」と、老大尉ゴロベーツィが言つた。「夢が当るといふことは、滅多にあるものではないから。」
「横におなりなさいましな、お姉さま!」と、若い嫁が言つた。「易者のお婆さんを呼びませうよ。そのひとにかかつては、どんな魔力も敵ひませんわ。きつと、あなたの怯えも落してくれますわ。」
「何も怖れることはありませんよ!」と、ゴロベーツィの息子も劔を握り緊めながら、言つた。「指一本ささせることぢやないから。」
どんよりした陰鬱な眼で、カテリーナは皆んなの顔を眺めたが、直ぐには言ふべき言葉も知らなかつた。
「あたしは自分で破滅を招いたのです。囚人を逃がしたのは、あたしですもの!」と、やがて彼女は言つた。「あたしは彼《あれ》のことで心の休まる暇もないのです! もうはや十日も、あたしはこのキエフのあなた方のお側に参つてをりますけれど、悲しさはちつとも減りはしませんわ。人知れず坊やを育てて、仇討をさせようとも思ひました……。あの魔法使は、あたしの夢に、それはそれは怖ろしい姿で現はれました! どうか、あんな夢をあなた方が御覧なさらないやうに! あたしの胸はいまだに慄へてをりますわ。※[#始め二重括弧、1−2−54]カテリーナ、俺はお前がもし俺と夫婦にならなけ
前へ
次へ
全50ページ中35ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ゴーゴリ ニコライ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング