、香水の匂いをさせたりしないことや、また道を歩きながら余り明けっぴろげに娘たちばかりを眺めたりしてはならないことを教えてくれた。
『爪垢を少しためて。――だが、汚穢《むさくる》しくなってはいけない。隔日位に、お湯に入って皮膚を清潔な健康色に磨くのがよろしいでしょう。』そんな注意もした。
 私は段々ロマンティストの様子に慣れて来た。適度の無精髭を蓄えて、ゆったりとした厚地の服に、洗濯の行き届いた縞シャツを着て、始終ネクタイをゆるく横っちょに滑《ず》らかし加減にして、百姓持ちの様な大きな煙管を銜えることにした。そして、外出の時には、ステッキの代りに、どんなお天気の日でも木綿の雨傘を携帯する位の技巧を会得した。勿論、もう不良少年たちから付けねらわれる憂はなくなった。
 さて、私はH――氏に誘われて、時々バンフィリヤ酒場《バア》へ行った。其処には、「星の花」とH――氏が讃えた美しい女給がいたが、彼女は次第にH――氏よりも新しい私の方に心を惹かれるらしい素振りを見せた。勿論、H――氏のロマンティスト的厚意から、私自身の真価に分をつけるために、私がその都度勘定を支払ったせいもあったのであろう。私が七度目にそこで酔っぱらった機会に、「星の花」は私を物蔭へ招いてこう云った。
『明日、お休みなの。遊びに連れてって下さらない?――』
『僕がですか? しめしめ!』
『え、あんた一人。夕方の六時に、表停車場でお待ちしているわ。その代り、その時、指輪を一つ買って来て下さらなくては厭。』
『それだけ、埋め合わせがあると云う寸法ですね、値段に応じて。』
『だけど、高くないので結構。』彼女は指輪の形や石について好みを述べた。
『僕、約束します。』
『約束のしるし!……』
 ロマンティストに栄えあれ! 私は、この果報に感激した。そして、三鞭酒《シャンペン》を矢鱈に抜かせた。
 私の有頂天になりようが、あまり激しかったせいか、H――は少からず機嫌を害ねたらしかった。戻り途で、私が唄を歌いはじめると、H――氏は苦々しい顔をして、『どんなに楽しいことがあったにせよ、あまり泥酔して時花唄《はやりうた》などを歌って歩くのは、我々に全く似合わしくないこととは考えませんか?――』とたしなめた。
 それで私は、折角打ち明けて聞いて貰おうと思っていたところだったが、「星の花」について何も云い出せずにしまった。
 翌日
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