渡辺温

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)年齢《とし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五|哩《マイル》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
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       *
 そこの海岸のホテルでの話です。
 彼女は女優でした。少しばかり年齢《とし》をとりすぎてしまいましたが、それでもいろいろな意味で最も評判のよい女優でした。
 劇場が夏休みなので、泳ぎにたった一人で海岸へ来ていたのです。
 ところが、ホテルのヴェランダで、ゆくりなくも誰とも知らない一人の青年を見初めてしまいました。――これは日頃の彼女にしてみれば非常に珍しいことで、しかもその青年はちっとも美青年でもなんでもなくて、むしろうち見たところひどく不器用な感じしかない男なのですが、そんな点がいっそ却って彼女の心をひいたのかも知れません。
       *
 彼女と青年とはよく申し合せたようにヴェランダで一緒になりました。それもたいてい他に人目のない時が多かったのです。
(あの人がもしちょっと後を振向いてそしてあたしを恋していると一言いってくれたらば――)と彼女は思うのでした。(……でも結婚なんてあたし厭だわ。弟ならいいわ。あんた、あたしの亡くなった弟とそっくりなんですもの……とそういおうかしら――)
 青年とても、屹度彼女に恋しているのに違いありません。その証拠には、青年は殊の外なる臆病者と見えて、彼女とそこで顔を合わせるや、いつでも真赤になって、そっぽ向いて、ひたすら海や松林の景色なぞ、あらぬ方ばかりを眺めるのです。
 もしかして自分が世にも名高い女優であることを、このあざらし[#「あざらし」に傍点]のように内気な青年は知らないのではあるまいかと疑ってもみるのですが、いつか海岸で恰度青年がしゃがんでいた砂の上に彼女の名前が大きく書かれてあるのを見かけたことさえあったし、そんな道理はない筈です。――彼女は華車《きゃしゃ》な両肩がぴんと尖った更紗模様の古風な上衣を着て、行儀よくいずまいしたまま、青年の後姿を腹立しげに睨むより仕方がありませんでした。
       *
 彼女は、なんとかして青年と近づきになれるような大きなき
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