く傾いたので、西洋人もおどろいて振り返った。
 西洋人は無精髯を一っぱい生やしていたが、それでもツルゲエネフのような優しい顔であった。そして薄い茶色の眼は、ひょっとしたら愁しげな光を含んでいるように、私は感じた。
 ――おろしてくんねえかな!」と丸髷の女の人は泣き出しそうになって云った。
 ――駄目だよ。いごくから余計と揺れるんだ。ちっともおっかねえもんかね。」と中学生は狼狽《うろた》えて相手を叱った。だが、中学生もやっぱり、茫漠と涯しもない天空のただ中で、小さな籠一つへ身を托したことが、そぞろ恐ろしくなって来たに違いなく、歯の根をカチカチ鳴らしていた。
 ――じっとして坐っていらっしやい。もっと高く上ってしまうと、却って怖くなくなりますよ。」と私が二人をなぐさめると、西洋人はちらりと私の方を見たようであった。
 軽気球はそれを繋留する綱の長さだけ上りつくして、さて止った。空の上のことだから、どんな日和にしても、必ず目に見えない風が流れていて、私共もそれに従って右や左に多少は揺られるのであった。田舎の女の人と中学生とはすっかり勇気をなくしてしまって、籠の底に坐ったまま到頭起き上がろうとしなかった。
 西洋人は、上衣の下へ斜めに懸けた革のサックから双眼鏡をとり出して下界を眺めた。けれどもそれは単なる風光の見晴しが目的ではなく、正しく何か探し物をしているのであった。細長い指を苛立たしげに慄わせて、幾度となく焦点を更えては、何時迄も、何時迄も、大東京の市街の表に刻まれた一つ一つの物蔭を丹念に漁るつもりらしかった。
 私は、自分の娯しみを全く等閑《なおざり》にして、ひたすら西洋人の態度をぬすみみた。だが、そのツァイスの精巧なレンズの目標が、果してどの見当であるかさえ、皆目推量もつかなかった。
 ――一体全体どんな情景をこのブリキとカンナ屑の都から摘出しようとこころみているのかしら?……

 その翌日も、私は西洋人と一緒に風船へ乗った。西洋人は矢張り双眼鏡ばかり覗いた。
 そして更に、その翌日も全く同じ事が繰り返された。
 その次の日も。
 次の日も。
 …………

 4

 私の好奇心は加速度的に膨れ上って、遂にはこの西洋人は何処かの軍事探偵ではないかしらと云う容易ならぬ仮想迄発展して行った。こうなると最早や私一個の風船に対するあどけない興味なぞは心の隅に追い込められてしま
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