なくなってしまったわ。」
 或る日、その娘は、軽気球から降りて帰りかけた私をとらえて、そう云った。
 ――それは、君に会いたいばかりにさ。」と私は答えた。
 ――まあ! 憎いことを仰有るのね。でもあたし、はじめは鳥渡そんな気がしないでもなかったけれど。ふ、ふ、ふ、ふ……。」
 娘は蓮葉な声で笑いかけたのを周章てて呑み込むと、居住いを直しながら、低声《こごえ》で私に注意した。
 ――おや、あなたの相棒がいらしたわよ。」
 この上天気に雨傘を携えた丈の高い西洋人が私共の方へ近づいて来た。西洋人もまた軽気球に乗りに来たのであった。
 私は彼の雨傘とそれから灰色の立派な顎髯とに見憶えがあった。私はびっくりして娘に訊ねた。
 ――あの異人さんも、時々来るのかね?」
 ――毎日いらっしゃるわ。だから、あなたの相棒だって、そう云うの。」
 ――はてな?」
 ――ことによると、やっぱりあたしを張ってるのかもわからないわね。ふ、ふ、ふ、ふ……。」
 ――僕は、あしたから、あの異人さんと一緒に乗せて貰うよ。」と私は云った。
 私は帰る途々、西洋人について仔細に考えてみた。そう云われればなる程、恰度この位の時間に帰るおりなら、会場の出口迄の間の何処かで、大抵その人と出会ったように思われた。私はただ、博覧会の事務所にでも関係のある人だろう位に考えて、別して深く気をとめたこともなかったが。――どうも、西洋人ともあろうものが、しかもあの年輩をして、風船なぞへ乗って楽しむなんて、なかなか信じ難い話だ。何か重大なる理由がなくては叶わぬ。……

 3

 翌日私はわざと何時もより一回分、つまり一時間だけ遅らせて行った。
 ――異人さん、もう乗っていらっしやるわよ。」
 と娘に教えられる迄もなく、私は切符を買いながらそっと、軽気球の籠をまたぎかけている背の延びた岱赭色《たいしゃいろ》の洋服を見てとった、私はいそいそとそのあとに従った。
 私と西洋人との他に、丸髷に結った田舎者らしい女の人が、少しばかり蒼ざめた顔をして、その連れの中学生と二人で乗っていた。
 西洋人は籠の外へ顔をそらした儘、パイプの煙草を吸った。
 やがて、新しい瓦斯を充満した軽気球は砂袋を落として、静かに身をゆすぶりながら上騰しはじめた。すると丸髷の女の人は声を立てて中学生の肩へしがみついた。そのために、均合をはずした籠がドシンと大き
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