父を失う話
渡辺温
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)窓帷《カーテン》を
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)どうしたのさ※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
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こないだの朝、私が眼をさますと、枕もとの鏡付の洗面台で、父は久しい間に蓄えた髭を剃り落としていた。そよ風が窓から窓帷《カーテン》をゆすって流れ込んで、そして新鮮な朝日のかげは青々と鏡の中の父の顔に漲っていた。
おもてで小鳥が啼いた。
「お父さん、いいお天気だね。」と私は父へ呼びかけた。
「上天気だ! 早くお起き。今日はお父さんが港へ船を見物に連れて行つてやる。」と父は髭の最後の部分を丁寧に剃り落しながら云うのだった。
「ほんと? 素敵だな!……」私は嬉しくてたまらなくなった。それから何気なくきいてみた。
「お父さん、何だって髭を剃っちまったんだね?」
「髭がないとお父さんみたいじゃないだろう。どうだ?……」と父はくるっと振向いて私を見たが、その次に細い舌をぺろりと出して眉根を寄せてみせた。
「どうしたのさ※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
「こうなれば、ちよっとお父さんみたいじゃなくなるだろう。……今日お前を連れて遊びに行ったところで、お前を捨ててしまうつもりなんだよ。うまく考えたもんだろう……」
父はそう云って笑った。
「嘘だい!」と私は寝床の上へ身を起しながらびっくりして叫んだ。
さて、父にせかれて仕立下ろしのフランネルの衣物に着換えた私は、これも今日はじめて見る香《にお》い高い新しい麦わら帽子をかぶって、赤色のネクタイを結んだ父と連れだって家を出た。
はつ夏の早い朝の空は藍と薔薇色とのだんだらに染まって、その下の町並の家々は、大方未だひっそりとして眠っていた。
停車場へ行く人気のない大通りを父はステッキを振りまわしながら歩いた。
「誰にも出遇わなくて幸だ。」と父は独言を云った。
「なぜ?」と私はきいた。
父は返事をしなかった。
だが、その代りに父はまた独言を云った。
「ほんとにいやな息子だ。十ちがいの親子だなんて! ああ俺も倦き倦きしたよ。」
「なぜ!」私は父の顔をのぞき込んできいた。
父は、併し、私の声が聞こえなかったものか、黙ってにやにや笑っ
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