のぞき込んだ。
『聞き覚えのない様なある様な、ですからよし聞いた事があったとしても余程古い昔に違いないのです。男の声で、「清水君。清水君! 君は明日スペエドのジャックをひきますよ」と云うのです。けれどもその時は、それが果して如何な意味であるか、僕にはまるでわからなかったのです。が、誰かの――たとえば、よくある活動好きの少年の悪戯位に考えて別に気にも止めませんでした。それが中根の死の何かの係り合いを持つ不吉な電話であろうとは、つい昨夜まで気がつかなかったのです。』
『なる程――ところが、それと全く同じ様な電話が昨夜再び君のもとへ掛って来たと云うのですね。それで君は、俄に恐しく神経を悩ましはじめたのだ――』
 西村はシャアロック・ホルムズの様な口調でこう云うと、少し勿体ぶった手つきでスリーカッスルをつめたマドロスパイプを脂《やに》さがりに斜めに銜えた。
『御推察の通りです。如何にも昨夜、七日の晩と少しも違わない電話が、矢張り同じ声で掛って来たのです。オヤ※[#疑問符感嘆符、1−8−77] と思った途端、まざまざと僕の頭に浮んだのは、不幸な中根の死骸でした。スペエドのジャック! スペエドのジャック! 西村さん! それは舟乗《マドロス》仲間で使われる死骸って云う言葉であったのじゃありませんか。ヒョイと、忘れかけていた僕の過去の生活の暗い記憶が思い出させてくれたのです。今度こそは駄目だ! 僕はもうすっかり諦めてしまいましたよ。こいつァ、今更どう悪あがきしたところで始まらない――それで僕は、もとより極く少額ではあるが、たった一人身の僕が有《も》っている財産――て程のものじゃない、身のまわりの物全部を、アメリカに行っている弟へ遺して行く手続でもしようと思って、こうやってあなたの所にあがった次第なのです。ははははは。』
 こう云った清水は何時の間にか再び最初の陽気な客に立ち戻って、燥いだ声をたてたのである。が、西村はパイプを銜えたまま、俊鋭らしい眉間に十字に皺を刻んで、痛ましそうに相手のその様子を見やった。
『そりゃあ、仰せとあれば遺言状も作りますがね、尤もこれは少し商売ちがいなのだが――併しそれにしても、ひどく悪あがきしなさすぎるじゃありませんか……警察の方にはむろん届け出たでしょうな。』
『警察? ええ。届けるには届けました。併し凡そ警察ってものは、あれァ学者の寄り集りですよ、
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