の気の迷いでも、夢でももちろん幽霊でもなかったと判ると、返って益々それが僕にはわけの解らないものになってくるのでした。で、その日一日僕はぼんやりと考えつづけていました。その、あんまり打ち沈んでいる僕の様子を見かねたのでしょう、マドレエヌは僕にむかって、今宵ニューカルトンの仮装舞踏会に行こうと云い出しました。このすてきな思いつきには、喜んで僕は賛成をしました。何故ならば、そうする事によって幾分なりと気を紛らせ得ると考えたのは勿論のことでしたが、明後日《あさって》になれば愈々この不思議な都上海にも、亦、それは可成り僕の心を悲しくさせたことなのだが、マドレエヌ――六ヶ月の間僕の親切な女房であったフランス女にも、お別れをしなければならなかったので、ともにせめてもの名残りを惜しみたかったからでした。それにニューカルトンの踊場の豪勢さは噂でこそ兼々聞いてもいたが、ついぞ未だ一度も行ってみたことがなかったので日本への土産話に見ておきたいとも思ったのでした。女は何であったかよく覚えていませんが、僕はたしかサムライの服装をして行きました。で、さっきも申し上げた通りスペエドのジャックの電話のことはまるで頭にとどめてなかったのですから――その日、身に恐しい厄が迫っていようなぞとは夢にも思っていなかったばかりでなく、目を驚かす絢爛たる踊場の有様に、どうやら胡の顔の幻すら忘れ果てて、僕はマドレエヌと共に心ゆくまで踊りぬくことが出来たのでした。そして少からず疲れたので、まだ時刻は早かったが、と云っても十二時は廻っていたのですが、そろそろ切り上げて帰ることにしました。と、階段わきのクロークルームの前でぱったり、ピエロの仮装をした少年紳士の郁さんに出遇ったのでした――郁少年の事はたしかまだお話し致しませんでしたね。彼は僕が上海に来た当時からひと方ならず親しくしていたこの都の若い金持のお坊っちゃんで、絵――洋画を大変上手に画くハイカラな美少年でした――で、郁少年はこの時初めて、僕の帰国することを知って、さまざまと残念がりました。僕も何だかつい[#「つい」に傍点]つり込まれてひどくセンチメンタルな気持になってしまいました……実際また郁少年はいかにも支那の金持のお坊っちゃんらしい素なおなやさしい若者であったのですからね。そしてそこで彼は、記念にと云って僕の着ていたサムライの衣裳を所望したのです。勿論僕は
前へ
次へ
全18ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
渡辺 温 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング