僕が幸子さんを突き落としたのだ。」
 ――しッ[#「しッ」は底本では「しツ」]! 下らないことを云うのは止せ。冗談にしろ、看護婦にでも聞かれたら厄介な話だ。」
 ――誰が冗談にこんなことを云うもんか。すっかり話をしよう。」
 ――お願いだ。もっと静かな声で喋ってくれ。」
 そこで、旻は兄に次のようなことを打ち明けた。
 ――僕の幸子さんに対する愛情は、僕たちが引きさかれてしまってからだって、ちっとも薄らぐことはなかった。いくら諦めなければいけないと自分の心に云いふくめてみたところで、所詮無駄だった。そして兄さんを怨んだ。我々の如き境遇にあって、たとえ幸子さんが兄さんの許婚であったにせよ、二人がお互に一切を擲って愛し合っているものを、引きはなす権利が兄さんの何処にあろうか! 兄さんが彼女を愛しているから、なぞと云うのはまことに理不尽千万な、この上もなく無法な理屈だ。僕には到底ゆるせなかった。僕は、どんなことがあったって、必ず幸子さんを自分のものにしてみせる覚悟だった。併し、悲しいことに、間もなく当の幸子さんが心変りしたものと見えて、むざむざと兄さんの妻になった。僕は結婚式に列《つらな》っ
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