い。どうせ昼飯前なのだから、自分達も憩んでもいいと考え、岩本樓の石の門の前に足を止めたのですが、その時雄吉君が俄かに元気づいて、『――岩本院の稚児上がり、平素着なれた振袖から……』と、壊れた※[#「韋+備のつくり」、第3水準1−93−84]《ふいご》のような声を出したので、吃驚して逃げ出しました。
『誰が、そんな声色を聞かしてくれって云って?』エミ子さんは癇癪をピリピリさせて、可哀相なピアニストを叱りつけました。『あんまり見っともない真似をすると、ほんとに追い返すわよ。』
『だって、初めっから、僕が来たいって云い張ったんじゃないんですからね。』雄吉君は鼻をならしました。『僕たちは一体この春の最も楽しい一日に、何しに此処迄出かけて来たのかしら。徒らに……』
『お黙んなさい。あんたは唯あたしの御亭主として、恥しくないように控えていればいいのよ。』
『だって、御亭主なら御亭主らしく、女房の腕をかかえるとか何か、もっとこう、幸福感を味わう機会があってもいい筈です[#「いい筈です」は底本では「いいで筈す」]。』
『贅沢云うなら、サッサと帰って頂戴。そんな幸福感を味わっちゃったら、あんたはあたしを
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