でした。
 エノシマヘフタリッキリデデカケルノイヤ? フジサンヤウミガミエルアイビキ!
『江の島へ二人っきりで出かけるの厭? 富士山や海が見える媾曳――だって。まあ! あきれた。何て図う/\しい……』エミ子は蒼くなって、泪をポロポロ滾して口惜しがりました。まことに無理もない次第です。何も浮気をするにことを欠いて、江の島へ行かなくとも!エミ子は、どんな男刈《ガルソンス》にした奥さんにだって負をとらない位、近代夫婦生活の新様式を理解しているつもりだったのですが、それだから尚更のこと堪え難い侮辱でした。
 と云うのは、実は一昨日の日曜に彼女は文太郎君に向って、
『春の海辺を歩き度いわ。靴も沓下《ストッキング》もぬいで、裸足で砂を踏んで歩くの。楽しかあない?』
『うん。』
『江の島へ連れてってよ。いや?』
『ああ。でも、今日は調べ物があるんでね。その中に、伊豆あたりへ遠出するように心がけようじゃないか。第一江の島なんて、弁天さまに対してだって、今更気恥しくって歩けやしない。フロリダとでも云うんならいいがね。』
『日曜のダンスホールなんてご免よ。あたし、海の風に吹かれ度いの。』
『誰がダンスホールの話をしたい? 江の島へ行き度ければ一人で行っておいで!』
『よくってよ。行かないわ。』『怒ったのかい?』
『エンミイ、いい子よ。そんなことで、怒ったりなんぞしないわ。その代り今度もっと暖かになったら、本当に遠くへ連れてって下さらなけりゃ厭あよ。』そんなわけで、エミ子は折角の春日楽しい日曜を、家にいて『収入一割貯金法』を読んだり、近所の子供に表情遊戯《アンダースタンディング》を教えたりして温順しく過ごしたのです。そして、文太郎君の調べ物と云うのは、例によって、南京鼠の運動神経組織改良と云うようなものでした。
 それだのに、その言下に軽蔑し去った江の島へ、密女と共に遊びに出かけると云うのなら、いくら春のバンジョーのように朗らかな気立てのエンミイ夫人でも、腹に据えかねるのが当然です。
  わが唇は生まれのままに朱し
  人妻なりきとて何の咎めそ
  …………
 巴里の時花歌《はやりうた》を、泪の塩の辛い口笛で吹きながら、エミ子は姿見に向って、お化粧をはじめました。シュタイン会社製舞台化粧用の三番ピンク色のパフを、はたいてもはたいても、細い泪が溝をつけてしまいます。眼の縁に、思い切って空色
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