? どうしたって云うこと? あなた知らなかったの?』
『そ、そんな馬鹿な!』あらためて、正しく左の靴を穿き終った文太郎君は、些か面喰った様子ではげしく首をふりました。『とんでもない、何もかも、みんな四月馬鹿だ!』
『だって、山崎さんたら、今日、文ちゃんと南京鼠の競進会を見に行く筈だったって、そう云ってるの……』
『な、な、何が、南京鼠だい! もう沢山だ。四月馬鹿、四月馬鹿!』文太郎君は、ステッキを引つかむと、身をひるがえすように外へ飛び出して行きました。
『待ってよ。文ちゃん! 文ちゃん! お待ちなさいってば!……』エミ子は周章てて、受話器をかけて、門口迄追いかけたのですが、文太郎君は一散走りに通りへ曲って行ってしまいました。
富士山が見える媾曳
エミ子は不安な予感にかられました。そう云えば、今日から新しく春外套に着かえたし――四月になって冬外套も着ていられまいと云えばそれ迄だけれども、併し何時だって、抱えて出る筈の折鞄《フォリオ》も、今日に限って置いて行ったし、こんなに早過ぎることを承知で周章てくさって飛んで行ったのは――エンミイが四月馬鹿にしようと思って時計をすすませて置いたのを、気がついていながらワザといいことにして、出掛け迄黙っていたらしいことは確かだ。
疑ってみれば、疑える節々が思い当らないでもなかったのです。直ぐ会社へ電話で問い合せてみようかとも考えたのですが、夫の勤め先が休みか否か解らないでいるなんて、そんな恥しい、可哀相な女房になるのは、自尊心が許さなかったので止すことにしました。
エミ子はしょんぼりと、茶の間に坐って考え込んでいましたが、やがて帯の間に挾んだ手を抜いて、思いついたように夫の置いて行った折鞄を開けて、中味を仔細に点検してみました。昨日の夕刊が二枚と、『探偵小説全集』が一冊と、『南京鼠の合理的長命法』と云うパンフレットと、古い帝国ホテル舞踏会の案内状が一枚出て来たばかりでした。
エミ子は、それから、文太郎君が昨日迄着ていた冬外套を持ち出して、ポケットをすっかり裏返して見ました。
ところが、胸のポケットから、手巾《ハンカチ》と一緒に小さな紙片のまるめたのが飛び出して来たので、その皺をのばして見ると、それは会社の便※[#「竹かんむり/銭のつくり」、第4水準2−83−40]紙で、何と次のような片仮名が、電報みたいに並んでいるの
前へ
次へ
全10ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
渡辺 温 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング