里ヶ浜の砂浜辺りで、肩すり寄せて語らい合っているかも知れないと思われたからです。浜辺にいる人からも必ず、松林の縁の街道を走る自動車の姿は一目で見える筈だし、そうすれば、幌なしの座席に相乗りしたアメリカの活動役者の恋人同士のように颯爽たる男女の様子は、この上なく羨ましい光景として見送られるに相違ないのです。
 けれども、七里ヶ浜の銀色に光る砂にかざす色あだめいたパラソルは幾つとなく点在し、そしてそれらの多数の傍には、それぞれ嬉しい人達がくっついていたにも拘らず、肝心の文太郎君の姿は一向に見当らなかったのです。
 それで、エミ子は、片瀬で自動車を乗り棄てると、先刻から富士の秀麗を讃嘆しようが、春の海の香りが風信子《ヒヤシンス》よりもすぐれていはすまいかと同意を求めようが、更にエミ子が取り合ってくれないので、遉に気を腐らしている雄吉君を従えて、長い長い桟橋を渡って、江の島の音に聞えた険路を急ぎ足で一巡し、岩屋の奥迄尋ね尽したが、その甲斐もなかったのです。まさか宿屋を聞いて廻るわけもならず、エミ子はすっかり気抜けがしてしまいました。――ひょっとして、岩本樓あたりに憩《やす》んでいるのかも知れない。どうせ昼飯前なのだから、自分達も憩んでもいいと考え、岩本樓の石の門の前に足を止めたのですが、その時雄吉君が俄かに元気づいて、『――岩本院の稚児上がり、平素着なれた振袖から……』と、壊れた※[#「韋+備のつくり」、第3水準1−93−84]《ふいご》のような声を出したので、吃驚して逃げ出しました。
『誰が、そんな声色を聞かしてくれって云って?』エミ子さんは癇癪をピリピリさせて、可哀相なピアニストを叱りつけました。『あんまり見っともない真似をすると、ほんとに追い返すわよ。』
『だって、初めっから、僕が来たいって云い張ったんじゃないんですからね。』雄吉君は鼻をならしました。『僕たちは一体この春の最も楽しい一日に、何しに此処迄出かけて来たのかしら。徒らに……』
『お黙んなさい。あんたは唯あたしの御亭主として、恥しくないように控えていればいいのよ。』
『だって、御亭主なら御亭主らしく、女房の腕をかかえるとか何か、もっとこう、幸福感を味わう機会があってもいい筈です[#「いい筈です」は底本では「いいで筈す」]。』
『贅沢云うなら、サッサと帰って頂戴。そんな幸福感を味わっちゃったら、あんたはあたしを
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