「それから、あなたが泣くか、っても訊いたわ。」
「僕が泣くか、だって?」
「ええ。あたし、だから、未だ一ぺんもAの泣いたのなんか見たことがありませんて、そう云ったの。」
「してみると、Bの奴女房の前で泣くのかな。――あんな本箱みたいな生物学者を泣かすなんて、どうも偉い細君だな。いやはや。」
 Aは煙管の煙に噎ぶ程哄笑ったが、哄笑いながら、細君の小いさなギリシャ型の頭を可愛いくて堪らぬと云ったように撫でてやった。
「お前も、ちっと位僕を泣かしてくれたっていいよ。」と彼は云った。

 次の土曜日の夕方だった。
 Bの細君が、帝劇にかかったニナ・ペインのアクロバチック・ダンスの切符を二枚もってAの細君を誘いに来た。
 だが、生憎Aの細君は、歯医者へ行く旁々《かたがた》街へ買物に出たばかりで留守だった。帰るのを待っている程の時間がなかった。
「B君は行けないのですか?」と、一人で蓄音器を鳴らしていたAが訊き返した。
「調べ物が忙しいし、それにあんまり好きじやありませんの。」
 Bの細君は、派手な大きな網の片かけの房につけた鈴を指さきで、ちゃらちゃらさせながら、鳥渡考えてから云った。
「Aさん、
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