があんまり入りこまないので、水が澄んで底の方まですっかり透き通って見えるし、それに何時でも潟のように穏かです。
 Bさんも、もう学校がお休みでしょう。あたし共ばかりでは、淋しくて困りますから、Bさんに願って、お二人連れでいらっしゃいませんか。――

 Bの細君は、昨日からA夫婦の突然の行方不明が気懸りでならなかったのだが、この手紙で一先ずほっとしたわけである。そしてBにもこれを読ませると、Bは何時になく気軽にそこの海岸へ、夫婦のあとを追って海水浴に行くことを賛成した。
 二三日して、学校の暑中休暇が初まると早々出発した。
 途中の汽車の中で、Bは偶《ふ》と、細君に向って、こんなことを云い出した。久し振りで不精髯を剃ったので、平生より余計蒼白く骨ばった顔をしたこの生物学の教師は、支那人のように無愛想な笑いを浮べながら、
「Aの細君は、お前たちのことを、やっと今になって感づいたのかな?」
 Bの細君は忽ち蒼ざめてしまった。
「あたしたちのことを※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
「そんなに吃驚するところを見ると、お前は僕迄騙していたつもりらしいが、実を云えば、僕なんか、或はお前たち自身よりも、もっと早くお前たちの今日を気がついていたかも知れないのだ。」
「まあ、何てひどい!」と彼女は、泪を流して、併し人目を憚って泣声を噛み殺しながら云った。
「あなたは、あたしを罠に落そうとなさるんですか? どんなに確かな証拠があって――」
「そう、たった一ぺん、こないだの晩、Aの家のポオチでお前たちが接吻し合っているのを見たきりだが、併し、Aが自分の女房よりお前の方を余計愛していることや、お前が僕よりAを愛していることは、そんな他愛もない証拠などを云々する迄もなく、誰でもお前たちの様子を一目見さえすれば納得が行くに違いない。」
「…………」
「そして、誰だって無理はないと思うことさ。だが、僕をごまかして置こうなんてのは沙汰の限りだ。」
「ああ! あたし、どうすればいいのでしょう。どうしても誘惑に打ち勝てなかったのです。……でも、もういくら悔んだところで、追い付かないことだわ。」
「今更、なまじ後悔なんかされると、恋の神様が戸惑いなさるよ。矢鱈に後悔したり、詑びたりし度がるのは、悪い癖だ。」
「――ごめんなさい。」
「僕は昔からAの性質を知っているが、彼奴は見かけだけ如何にも明快そうにしていて、その実ひどく卑怯な性質だ。気がいいと云えば云えないこともないが、それだからと云って、僕の生活までが、そんな被害を甘んじてうけ入れていられるものではない。」
「あなた、それを承知で、これから乗り込んで行って、どうなさるおつもりなの?」
「適当に自分の決心を実行するだけだ。僕は科学者だから、何時だって冷静に計画を立てることが出来る。」
「決心って、どんなことをなさるの?」
「歯には歯、眼には眼さ。――だがA夫婦と会って見た上でなければ判らない。」
「ねえ、お願いですから、あたし一人、さきにAさんと会わせて下さい。」とBの細君は歎願した。
「いいとも。そして、Aに決意をすすめるがいい。出来るだけ、自分の浅はかさを手厳しく感じさせてやりたまえ。尤も、僕はAのために、一時間だって待って遣るわけにはいかないがね。――だが、細君は、若しかすると未だ何も判っていないのかも知れないのだから、兎に角細君の前では出来るだけ何気なく振舞わなければいけない……」
 Bはそう答えると、外景の夕暮れた窓に向って、ガラスの中に映った自分の不機嫌な顔を瞶めるように、むっつりと口を鎖した。
 細君は大きな不安に怯えながら、泪を乾して思案に暮れた。

 3

 B夫婦が、A夫婦の泊っている海岸の宿屋についたのは、もう大分遅かったので、四人は極く短い時間を談笑してからそれぞれの部屋に寝た。
 翌朝、起き抜けに、Bの細君はAに案内を頼んで、浜辺へ散歩に出た。
 濃い朝霧の中に、上天気の朝日のさしている砂丘に並んで腰を降ろして、Bの細君は昨日の汽車の中のことをすっかり話した。
 Aは果して狼狽した。
「僕は、もう当分あなた方に会うまいと思って此処へ来たのだったに!」
「奥さんは、御存知なのですか?」
「僕が残らず喋ってしまったんです。けれども、彼女は何もかも仕方がないと云ってゆるしてくれました。そして、此処へ着くとすぐ自分が勝手にあなた方へ手紙を書いたのです。」
「お互に覚悟を決めようじゃなくって? あたしあなたとなら海へ飛び込むことも出来ますわ。」
「Bは僕を卑怯者だと云ったのですか?」
「あの人は、少しでも曲ったことを許して置けない性分なの。それに、冷静に計画を遣り遂げることが出来ると云っていました。」
「僕は、これ以上卑怯者と譏《そし》られないために、もう逃げ隠れはしません。Bが僕に復讐を決心
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