したのなら、平気でそれを受けて見せます。」
「――あたしたちは、お互に、未だ結婚してから一月と経たないのよ。それだのに!……なぜ、神さまは、最初にあたしとあなたとを会わせて下さらなかったのでしょう。……」
二人は抱き合って、今更ながら余りに理不尽と思える運命のからくりを嘆いた。それから昔のけなげな恋の受難者たちのように、最後迄勇気を失さぬことを誓い合って、砂丘を降りた。
朝食が済んだ後で、霧がはれて、海がギラギラ青い鋼鉄《はがね》色に煌きはじめると、二組の夫婦はそろって海水浴に出かけた。
Bは何事も云い出しそうな素振りを見せなかった。むしろ、皆の中で一番気楽そうに振舞った。それでも、他の誰とよりも、やはりAの細君と口数多く喋った。
「Bさん、お家にいらしても、こんなにお元気? Aをごらんなさい。どうしたわけか、あんなに悄げています。まるであべこべね……」
そう云ってAの細君が笑った。
「Aは屹度海が怖いのでしょうよ。」とBが答えるのであった。
「尤も、僕なんかでも、ひどく自然の姿に恐怖を感ずることがありますがね。人間の卑屈な知恵や小力が、どう悪あがきしても侮り難い[#「侮り難い」は底本では「悔り難い」]強大な意志に圧迫されるのでしょうな。……」
Aは、それを聞いて苦笑いをしたが、直ぐに歯をギリギリ音を立てて噛み鳴らした。
やけた砂の上に足を投げ出しながら、Bは自分の細君に何気ない調子で訊ねた。
「Aに、例のことを話したのかね?」
「ええ――」Bの細君は思わず頬を硬ばらせた。
「ふむ――」
BはそこでAの方を振り向いて云った。
「A。君とはあんまり泳いだことがないが、どの位泳げるんだ?」
「そうだな。子供の時分なら相当泳げた方だが、併しそれも大てい河ばかりで泳いだものだ。」
「それなら確だ。どうだ、一つ遠くへ出て見ようじゃないか?」
「うむ。――」
Aが応じて立ち上がりかけると、その途端にAの細君の足がAの目の前に延びた。Aは彼女の白い足裏に、焚火の残りの消炭か何かで黒く、(アブナイ!)と書かれてあるのを認めた。だが、彼は躊躇してはいなかった。
二人は肩をそろえて沫を切りながら、沖を目がけて泳いだ。やがて安全区域の赤い小旗の線を越した。沖の方の水は蒼黒く小さい紆りを立てていて、水温も途中から俄かに変って肌がピリピリする程だった。Bは脇目もふらずに無表情な頤を波の上につき出して進んで行った。Aは実際は、それ程水練に熟練していなかったので、間もなく手足に水の冷たさが堪《こた》えた。そして、だんだん草臥れて、息が乱れて来るのがわかった。だが、弱音を吐かずに我慢しなければならなかった。初めの中こそ二人並んでいたのだが、直きにBは可なりの距離を残してAの先に立った。決して、蒼ざめ果て顔を引歪めているAの方を振り返って見なかった。Aはその中に、幾度か塩水を飲み込んで噎せた。そして到頭、右の脚をこむら[#「こむら」に傍点]返りさせて、ぶくぶく沈みはじめた。
Aの叫び声を聞いて、たちまちBは引き返して来ると、浪の下にもみこまれているAの腕を危く掴まえて浮んだ。そして折よく近くにい合せた小舟に救い上げてもらった……
Aが、宿屋の床の中で、はっきり吾に返った時、枕元について看護していたのは、Bの細君一人だけだった。
「僕は、どうして助かったのですか?」
「Bが助けました。」
「…………」
「Bは大へん心配していました。あなたに、人のいないところで泳ぎながら、あのお話をするつもりだったのですって。」
「うちの女房はどうしたでしょう?」
「奥さんは何も御存知ないの。あなた方が泳ぎはじめると、直ぐに『眩暈がする』と仰有って、宿に戻ったのですけれど、それっきり皆を置いてきぼりにして家へ帰ってしまったらしいの。帳場で聞いたら、ただあなたに『急に思い出したことがあるから――』と云うお言伝だったそうです。」
「Bは?」
「自分の部屋にいます。」
「呼んで来てくれませんか。」
Bの細君は、Bを呼びに立ったが、直き一人で、右手に黒いガラスの小壜を持って引返して来た。
「Bも帰ってしまいました!――」と彼女は震え声で、やっとそれだけ云った。
「何とも断らないでですか?」
彼女は點頭《うなず》いて、黒いガラス壜を差し出して見せた。小いさな髑髏《どくろ》の印のついたレッテルに、赤いインキで(空虚の充実。お役に立てば幸甚!)と書かれてあった。
二人は容易にその意味を理解した。そしてその夜、壜の中の赭黒い錠剤を一個ずつ飲んで、天の花園へ蜜月旅行に旅立つために、二人はあらためて、花嫁となり花婿となった。……だが、何時間経っても、ただ一度Aが苦い※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]気を出した以外に、薬の効き目はあらわれなかった。夜が明けかけても、
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