かけた灯の下で、宵に街から買って来た絹糸でネクタイ編みながら未だ起きていた。
「ごめんよ。さびしかったろう?」
「いいえ……Bさんが鳥渡遊びにいらっしったわ。」
「Bが?」
「怖そうな人ね。それに、まるでだんまりやよ。」
「うん。あれでなかなか気の好いところもあるんだがね。僕たちのことを何も云ってやしなかったかい?」
「別に、でも、一言二言皮肉みたいなことを云ったわ。」
「何て?」
「あなた、気を悪くするかも知れないの。」
「何て云ったい?」
細君は、編みかけの赤とオリイヴ色とが交ったネクタイをいじりながら返事をしなかった。
「ねえ、本当に何て云ったんだ?」Aは、飲みかけの紅茶をさし置いて追及した。
「あのね、こんなネクタイを編ませたりするAの気が知れない。こんなものは、街へ行けばもっと安く、手軽に買えるじゃありませんか、って。」
Aは苦笑した。
「フム、学校で生物学の講義でもしていると、どんなことでもそんな風にしか考えられなくなるんだよ。……自分の細君のことは何とも云わなかったかい?」
「――いない方が、邪魔にならなくていいんですって。それに、僕の女房は僕に、A君が気に入っているのだし、A君とならよく似合うから恰度いいだろうって仰有ったわ。」
「下らない! 変な冗談を気にかけちゃいけないよ。僕はBの細君なんかと一緒に行ったって、ちっとも楽しくなんかなかった。本当に、悪かったら、勘弁しておくれ。」
Aは細君をやさしく抱いた、すると彼女は身をかたくした。
「なぜ、そんな風に仰有るの?」
「莫迦! 泣く奴があるもんか」
「だって、あなたが、そんなことを仰有るからよ……」
「これから、決してお前ひとり置いて行ったりなどしないよ。……いい子だ、いい子だ。」
Aは細君の泪に接吻してやった。
2
併し、Aと、B夫人との間はそれから加速度的に接近して行った。
夫の仕事の邪魔になるからとか、学校の研究会で帰りが遅くなって、一人でいるのは淋しいとか、いろいろな口実のもとに、Bの細君はAの家に入り浸った。
一度なぞは、Aの役所の退け時に、さも偶然らしく役所の前を通りかかって、一緒に散歩してお茶を飲んだり、自動車に乗ったりして帰って来た。尤も、その時はAも表面で全く成心なさそうに振舞ったが、併し家へ帰ると、二人ともそのことを内秘にしていた。
またBの細君はタンゴ・ダンスがうまかったので、A夫婦にも教えることにした。けれども、Aの細君の方が何時も気のすすまない顔をしていたので、大ていAばかりを相手にして踊った。Aは彼女と四肢を張り合わせるようにくっつけて、客間の中を引っぱり廻された。そして女の体を胸の中に抱きかかえる姿勢のところに来ると、自分の細君の方を振り返って赧くなるのだが、だんだん狎れると、一層赧い顔をしながら、そっと両腕に力を入れた。
「ごめんなさい、奥さん。――」とBの細君は、Aの細君へ彼女の夫の腕の中に身をたおしたまま声をかけるのであった。すると蓄音器係のAの細君が
「どうぞ。――」と冷かにそれに答えた。
結婚して三週間経つか経たない中に、Aは新妻を裏切ってしまった。
或る晩、矢張りタンゴを踊っていたのだが、Aは細君が退屈そうに脇見をしている隙を覗って、素早くパアトナーの唇に接吻した。そして、彼女が帰る時にも、わざわざポオチまで送って出て、そこの藤の緑廊《パーゴラ》の蔭で長い接吻をしたのである。
だが、その後で彼は直に家の中へ飛び込んで行って、すっかり細君に白状した。彼女も遉にびっくりして泣いた。
「あたし、何だか、そんなことになるのが前から判っていたような気もするの……」と彼女は泣きじゃくりながら云った。
「そう薄々感づいていながら、平気でいたお前にだって責任の一半はある。」Aは我儘な子供のように焦れったがった。
「あなた、なぜ、あたしを捨ててしまおうとなさらないの?」
「僕はお前と別れようなんて夢にも考えてやしないよ。……お前が、お前一人で、僕を堪能させてくれなかったからいけないのだ。結婚したばかりで、妻が夫の心の全部を占領していないなんて間違いだと思う。」
「――別れるの可哀相だから嫌だと云うだけでしょう?」
彼女は泣くのをやめて、ぼんやり考え込んだ。
「しばらく海水浴にでも行って、二人きりで暮そうじゃないか。」とAが急に思いついたように云った。「明日の朝、出発しよう。……お互にしっかり隙のない生活に嵌り込むことが必要だ。」
翌朝、役所へだけ届けをして、B夫婦には断らずに、海岸へたった。
ところが、一日置いて、海岸のAの細君から、Bの細君へ宛てて手紙が来た。
――突然ここの海辺へやって来ました。お驚きになったでしょう。だしぬいて驚かしてやろうとAが主張したのです。ごめんなさいね。
此処の海は人
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