を奮い起して、泣きたい心を抑えつけた。
 ――コツコツ、コツコツ」と扉が鳴った。
 姉は懲りもしないで、直ぐに立って行って扉をあけた。
 だが、今度は本当にお客様であった。その花を買うお客は頭も顔もつるつる光った肥っちょの紳士であった。紳士は物をも云わずに姉を抱き寄せた。……紳士がどんな見るに堪えない侮辱を姉に加えたか、私は語りたくない。
 私はとにかく、突然寝台の下から躍り出してその紳士を襲った。私は紳士の背部深く短刀を突き刺した。……哀れな姉は、紳士の胸の中で気を失って、一緒に床の上に倒れた。
 私は短刀を姉の手に握らせた。
 それから、私は血に塗みれた手を洗面台ですっかり洗い落として、さて落ちつき払ってその部屋を立ち出《い》でた。

 8

 私はたえてない楽しい気持で家路を辿った。
 何んと云う思いがけない幸福が向いて来たものであろう!
 私の勇気は、あらゆる人生の不幸をうち亡ぼしてしまったではないか。
 おそらく姉は、今頃は警察の手に抑えられて、そして
 ――この十万長者を殺したのはお前であろう。ウムよろしい金が欲しさに殺したと云うのだな。」
 と云う署長の厳しい問に対して、
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