ではなくして、立派な髭と、そしてあの美しい娘の恋だけである! と。
 ――自分は先ず自由な一本立ちの生活をしなくてはならない、と私は思い立った。
 併し、その前に私は、姉の正体を、姉が一体果して、尋常な路傍の草花売りであるか否かをたしかめたかった。この頃になって気がついた事だが、姉の草花を入れる小さな籠に一輪の花はおろか枯れ葉や花の匂も、ただの一度だって、そこに花なぞの入っていたらしい形跡をみとめ得たためしはなかった。それにそんな籠一杯の花の数が、私達二人の生活を支えるのには、あまりに少なすぎることをも理解するようになったし、私は姉の商売をしているところを見届ける必要があると切実に感じた。
 暮方近くになって、姉が眼をさました時に私は姉にたずねた。
 ――姉さんは、何処で商売するのですか?」
 姉は、明かにギクリとしたらしかったが、つとめて平静を装って、窓から遙かの夕焼雲の下にそびえ重さなる街をゆびさした。
 ――アノ、ニギヤカナ、マチデサ。」
 ――ほんとですか。姉さんの花を売るところを僕に見せて下さい。」
 姉は、すると、いよいようろたえた様子であった。
 ――バカ! オマエハ、ウチデ、オトナシク、ルスバンヲシテイレバ、ソレデ、イイノダヨ。」
 ――僕は、いつかしら、屹度姉さんに知れないように、跡をつけて行ってしまいますよ。」と私は云った。
 姉は顔色を変えて唸った。そして劇しく、上下に首をふって、泣きじゃくった。

 7

 哀れな姉は、それでもいつもの時間が来ると、唇と頬とに紅を塗って、草花の空籠を風呂敷に包んで、夕風の吹いている街路へ出て行った。
 私はそれを窓から見送っていた。姉は私を疑って、幾度も幾度も振り返りながら、甃石道を遠ざかって行った。
 姉の姿が程近い街角を曲り切ってしまうと、私はすぐさまマントを取り上げて、姉の跡を追った。並木の路を一散に走って行ったので、そこの街角を注意深く曲って眺めた時、私はそんなに骨を折る程でもなく、姉の一きわ目立ってみじめな痩せた肩をば、見出すことが出来た。私はマントをすっぽり頭からかぶって、見えつ隠れつ、姉を尾行した。電車道に沿ったり、坂を上ってまた下りたり、裏町のうす暗がりを抜けたりして、長い長い道のりを姉は小刻みな足どりで歩いて行った。そして遂に、私達の家の窓から雲にそびえて見える、あの宏大な建物ばかりが、押し
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