可哀相な姉よ!

 5

 ――姉さん、どうしたのです?」
 姉は、さも憎々しげに私を睨みつけながらうなずいていた。
 ――オマエ、ヒゲヲ、ハヤス、ツモリカエ?」
 ――だって、僕はもう大人になったのですから生やしたいのです。」
 ――オトナハ、ワタシ、キライダ!」
 ――そんなことを云ったって、無理ですよ。僕は大人になって、姉さんを広い家に住まわせて、仕合せにして上げようと思うのです。」
 ――イイヨ。カッテニ、スルガイイ。ワタシハ、アノクスリヲノムカラ!」
 ――薬ですって?」
 姉は首を横に振って、机の上の黒い本を開いて見せた。
 ――ダイナマイトは、また、食べることも出来ます。」
 私は姉のザラザラな粗悪な壁土のような頬に接吻した。
 私はそして、姉の見ている前で、剃刀を研いで、うっすらと生えかかって来た髭を剃り落としてしまったのだ。
 だが、――またその翌日の夕方になると、私は姉の後姿を窓から見送って、それからさて、れいの並木の方を眺め渡すのであったが、女はその言葉通りあの夜以来とんと姿を現わさなかった。男の姿も――あの男は、あの夜五分遅れてやって来て、彼女に思いがけない私という新しい恋人の出来たことを見てしまったのでもあろうか、とにかく再び姿を見せなかった。
 並木の上に月が出ても、甃石へうつる影は並木ばかりであった。
 私は窓の縁に、深い溜息をついて、もう決して髭を剃るまいと心に誓った。

 6

 私の髭は日ましに青草のように勢いよく延び初めた。今朝目をさまして見ると、もう殆どつけ髭にも劣らない位立派に生え揃っていた。
 姉は勿論、怒って、泣いた。けれども私は、固い決心をもって姉のたあいもない我儘に抗った。
 ――髭を生やすことがなぜいけないのか?
 私は、毀れてしまった操り人形のように、あわれにも精も根も尽き果てた様子で、明るい真昼間の日ざしの中で眠りこけている姉の寝姿を見ていると、自分もつい悲しくなるのだが、しかし私は姉をそんなに不幸にしてしまったとしても、それはあくまで自分の罪でないことを、自分の胸に幾度も云いふくめた。……私は、姉の体を食べても大きくなる事が必要だったのだ。して見れば今になって、唖娘の気紛れな感傷のために、大人になることを妨げられなければならない理由は何処にもない筈だ。……人生の曙に立って、私に価値あるものは、哀れな片輪者の泪
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