佯《いつわ》って、井戸の中に身を投げたように見せかけて、どれ程夫が嘆き悲しむか、それに依って夫の、自分に対する愛情を測ると云う話を読んだことがございました。わたくしは、その故事に倣って、こんな不幸を惹き起した罪を償うために、裏の古沼に陥って死にます――と云う遺書を部屋に遺して、物置の中にひそみながら、男たちの戻るのを待って居りました。すると先に帰って来たのが小野さんでした。小野さんは、ひどく酔っていたようですけれども、直ぐにわたくしの遺書を見付けたものとみえて、殆ど泣き声のような叫びを上げながら裏の沼の方へ駆けて行きました。それから間もなく引返して来て、画室へ入ってしまうと、やがて、鈍い銃声が聞こえたのでございます。わたくしは、取り返しのつかない間違いを仕出かしたことを知りました。わたくしは無性に恐しくなって、その偽の遺書を火鉢に燻べてしまったのでございます――』

 3

 この陳述は係官を納得させたらしい。
『では、矢張失恋自殺でしょうかな。』
『いや、むしろ情死と見なすべきだろう。』
 彼等はそんな意見を云い合った。
 それから、追って沙汰をする――ことになって役人の一行は引き上げかけた。
 ふと、この時、さい前の刑事が電気に打たれたようにぎくり[#「ぎくり」に傍点]としたのである。
『このピストルは小野さんのですね?』と刑事は葛飾に訊ねた。
『そう――一昨年僕と二人で上海へ遊びに行った折、買ったものです。』
『届けは?』
『してありません。』
『ふむ――』
 刑事は死体と一番近い部分の壁を一心に瞶めている。白い壁の面に一銭銅貨程の大きさに、新しく欠け落ちた箇所がある。
『あの痕はどうしたのですか?』
『知りませんね。僕はそんな些細な莫迦げたことを気にかけたためしはないのです。』
 と葛飾は腹立し気に答えた。
 刑事はそれを黙って聞き流しながら、しきりにその壁の欠け目の位置を目で計った。
 刑事はピストルを手巾《ハンカチ》で注意深く取り上げて鞄に入れて帰って行った。
 刑事は路すがら考えた。――どうも、あの女の話は当になったものでない。支那の小説を読んでそれに倣ったところが男が本当に死んでしまったなぞと云うのは、如何にもあんな娘の好きそうな空想ではないか。三角関係が主因になっている点はおそらく事実であろう。その方が事件の筋みちが立つ――他殺に相違ない。あのピス
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