扉の前に寝ようと、恥にもならぬし、また咎められるようなこともない。すべて恋をする者の行為には、一種優美な趣が加っているものである。――Y君もまたプラトオンの「饗宴《シンポジュウム》」を愛読した折があって、パウサニアスの愛の論議に信頼していたので、容易に勇気を挫かなかった。
 ただ雨よりも霧よりも一番Y君を閉口させたのは、例の夜の女の群れであった。殆んど天上なるものへの思慕の如く一途に汚れなきこの恋の精進を、みにくい悪魔の誘惑に邪《さまた》げられることが堪えられなかった。Y君は、何時でも、彼女たちの当のないあぶれた足音が歩道の上を近寄って来ると、甃石に唾をはきつけて退却した。
 ところが、その運命的な休みの一日、未だそんなに遅くない刻限で、ようやく暮れなずんだ水の色を見つめながら、Y君は池の縁の柔らかい草むらに足を投げ出していた。すると、だしぬけに、そっとY君の両肩につかまった者があった。振向いて見ると、一目でそれと判るような、小綺麗なエプロンを胸にかけた可愛らしい女中が、悲しそうな顔に何か訴えたいような風情を示しているのであった。
『どうなすったのですか、お嬢さん?』と恋の修道士は訊ね
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