な鴇色のリボンで結んだ女が云った。
 Y君は、そこで、もうこちらの姿を見咎められるおそれもなかったので、威勢よく立ち上がって、窓に向って別れの敬礼をすると、剣と拍車とを鳴らしながら帰って行った。……
 Y君の休日の日課があらためられた。恋《いと》しい人の映画が掛っている時なら、それを見に行くことは云う迄もないが、それは必ず昼の中に切り上げて、夕方からは彼女の住居をよそながら眺めるために、公園へ散歩することにきめた。
 久しいことこの習慣が根気よく保たれた。
 雨降りの休み日が二十一度、その中六度は外套を透して、長靴の中へ流れ込む程の豪雨であった。そんな時には、無論窓にいかめしい目かくしが下りていた。
 霧のために窓の灯が見別け難かったことが十三度。
 風のあまり吹かない地方なのだが、それでも池の水が波立って、四辺の景色を映さなかった日が一ダース。
 散歩季節の夕月の美しい時分には、沢山の散歩者から自分をあきらかにするために、ハーモニカで時花節《はやりうた》などを奏した。(ハーモニカにかけては、Y君は隊内随一の名手であった)
 愛情の故には、どんな大胆な振舞いに出ようと、たとえ恋人の家の扉の前に寝ようと、恥にもならぬし、また咎められるようなこともない。すべて恋をする者の行為には、一種優美な趣が加っているものである。――Y君もまたプラトオンの「饗宴《シンポジュウム》」を愛読した折があって、パウサニアスの愛の論議に信頼していたので、容易に勇気を挫かなかった。
 ただ雨よりも霧よりも一番Y君を閉口させたのは、例の夜の女の群れであった。殆んど天上なるものへの思慕の如く一途に汚れなきこの恋の精進を、みにくい悪魔の誘惑に邪《さまた》げられることが堪えられなかった。Y君は、何時でも、彼女たちの当のないあぶれた足音が歩道の上を近寄って来ると、甃石に唾をはきつけて退却した。
 ところが、その運命的な休みの一日、未だそんなに遅くない刻限で、ようやく暮れなずんだ水の色を見つめながら、Y君は池の縁の柔らかい草むらに足を投げ出していた。すると、だしぬけに、そっとY君の両肩につかまった者があった。振向いて見ると、一目でそれと判るような、小綺麗なエプロンを胸にかけた可愛らしい女中が、悲しそうな顔に何か訴えたいような風情を示しているのであった。
『どうなすったのですか、お嬢さん?』と恋の修道士は訊ね
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