庵に坐らせてもらつて居るので、何と云ふ幸福でせうか――。又、同人井上氏の御同情は申す迄も無く至れり尽せりでありまして、是等一に、井師を機縁として生じて来たものであると云ふ事に思ひ到りますれば、私は茲に再び、朗々、観音経を誦さなくてはならない気持となるのであります。
 丁度明治卅五年頃の事と覚えて居ります。其頃、井師も私も共に東京の第一高等学校に居りました。井師は私よりも一級上級生といふわけで、其頃は俳句――新派俳句と云つた時代です――が非常に盛で、其結果「一高俳句会」といふものが出来、句会を開いたものでした。句会は大抵根津権現さんの境内に小さい池に沿うて一寸した貸席がありましたので、其処で開きました。そこの椎茸飯といふのが名物で、お釜で焚いたまんまを一人に一つ宛持つて来ましたが中々おいしかつた、さうした御飯をたべたり御菓子をたべたりなんかして、会費は五十銭位だつたと記憶して居ます。いつでも二十人近く集りましたが、師匠格としてきまつて、虚子、鳴雪、碧梧桐の三氏が見えたものです。虚子氏が役者見たいに洋服姿で自転車をとばして来たり、碧梧桐氏の四角などこかの神主さん見たいな顔や、鳴雪氏のあの有名な腹燗なんかの事を思ひ出しますのですよ。其当時の根津権現さんの境内はそれは静かなものでした。椎の木を四五尺に切つて其を組合せて地上に立てゝ、それに椎茸が生えて居るのを眺めたりなどして苦吟したものでした。日曜日なんかには、目白の啼き合せ会なんか此境内でやつたのですから、それは閑静なものでしたよ。
 処で私は三年の後、一高を去ると共に、此会にも関係がなくなりました。そして井師は文科に、私は法科にといふわけで、一時、井師との間は打ち切られて、白雲去つて悠々といふ形でありました。処が此縁が決して切れては居りませんでした。火山の脈のやうに烈々として其の噴出する場所と時期とを求めて居たものと見えます。世の中の事は人智をもつてしては到底わかりつこ[#「わかりつこ」に傍点]ありませんね。其後、私は已に社会に出て所謂腰弁生活をやつて居たわけであります。そして茲に機縁を見出したものか、層雲第一号から再び句作しはじめたものであります。それからこつちは所謂絶ゆるが如く絶えざるが如く、綿々縷々として経過して居ります内に、三年前の私の放浪生活が突如として始まりまして以来は、以前の明治卅五六年時代の交渉以上の関係
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