ります。しぜん、庵のぐるりはいつも真ツ暗と申して差支へありますまい。イヤ[#「イヤ」に傍点]、お墓を残して居りました。庵の上の山に在る墓地に、ともすると時々ボンヤリ[#「ボンヤリ」に傍点]と一つ二つ灯が見えることがあります。之は、新仏のお墓とか、又は年回などの時に折々灯される灯火なのです。「明滅たり」とは、正にこの墓地の晩に時々見られる灯火のことだらうと思はれる程ボンヤリ[#「ボンヤリ」に傍点]として山の上に灯つて居ります。私は、こんな淋しい処に一人で住んで居りながら、之で大の淋しがりや[#「淋しがりや」に傍点]なんです。それで夜淋しくなつて来ると、雨が降つて居なければ、障子をあけて外に出て、このたつた三つしかない灯を、遙かの遠方に、而も離れ離れに眺めて一人で嬉しがつて居るのであります。墓地に灯が見える時は猶一層にぎやかなのですけれどもさうさう[#「さうさう」に傍点]は贅沢も云へないことです。庵の後架は東側の庭にありますので、用を足すときは必ず庵の外に出なければなりません。例の、昼間海を眺めるにしましても、夜お月さまを見るにも、そしてこの灯火を見るにも、私が度々庵の外に出ますのですから、大変便利であります。何が幸になるものか解りませんね。後架が外にあることがこれ等の結果を産み出すとは。
 灯と申せば、私が京都の一燈園に居りました時分、灯火に対して抱いた深刻な感じを忘れる事が出来ません。此の機会に於て少し又脱線さしていたゞきませう。一寸その前に一燈園なるものの様子を申上げませう。園は、京都の洛東鹿ヶ谷にあります。紅葉の名所で有名な永観堂から七、八丁も離れて居りませうか、山の中腹にポツン[#「ポツン」に傍点]と一軒立つて居ります。それは実に見すぼらしい家で、井師は已に御承知であります。いつぞや北朗さんとお二人で園にお尋ねにあづかつた事がありますから……それでも園のなかには入りますと、道場もあれば、二階の座敷もある、と云つたやうなわけ。庭に一本の大きな柿の木があります。用水は山水、之が竹の樋を伝つて来るのですから、よく毀れては閉口したものでした。在園者はいつでも平均男女合して三十人から四十人は居りませうか、勿論その内容は毎日、去る者あり、来る者ありといふのでして、在園者は実によく変ります。私は一昨年の秋、而もこの十一月の二十三日|新嘗祭《にひなめさい》の日を卜して園にとび
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