込みました。私は満洲に居りました時、二回も左側湿性肋膜炎をやりました。何しろ零度以下四十度なんと云ふこともあるのですから、私のやうな寒がりにはたまりません。其時治療してもらつた満鉄病院院長A氏から……猶これ以上無理をして仕事をすると……と大に驚かされたのが此生活には入ります最近動機の有力なる一つとなつて居るのであります。満洲からの帰途、長崎に立ち寄りました。あそこは随分大きなお寺がたくさん有る処でありまして、耶教撲滅の意味で、威嚇的に大きくたてられたお寺ばかりです。何しろ長崎の町は周囲の山の上からお寺で取りかこまれて居ると見ても決して差支へありません。そこで色々と探して見ましたが、扨、是非入れて下さいと申す恰好なお寺と云ふものがありませんでした。そこで機縁が一燈園と出来上つたと云ふわけであります。長崎から全く無一文、裸一貫となつて園にとび込みました時の勇気と云ふものは、それは今思ひ出して見ても素破らしいものでありました。何しろ、此の病躯をこれからさきウンと労働でたゝいて見よう、それでくたばる[#「くたばる」に傍点]位なら早くくたばつて[#「くたばつて」に傍点]しまへ、せめて幾分でも懺悔の生活をなし、少しの社会奉仕の仕事でも出来て死なれたならば有り難い事だと思はなければならぬ、と云ふ決心でとび込んだのですから素破らしいわけです。殊に京都の酷寒の時期をわざ/\選んで入園しましたのも、全く如上の意味から出て居ることでした。
 京都の冬は中々底冷えがします。中々東京のカラツ[#「カラツ」に傍点]風のやうなものぢやありません。そして鹿ヶ谷と京都の町中とは、いつでも、その温度が五度位違ふのですからひどかつたです。一体、園には、春から夏にかけて入園者が大変多いのですが、秋からかけて酷寒となるとウン[#「ウン」に傍点]と減つてしまひます。いろんなことが有るものですよ。扨、それから大に働きましたよ。何しろ死ねば死ね[#「死ねば死ね」に傍点]の決心ですから、怖い事はなんにもありません。園は樹下石上と心得よと云ふのがモツトー[#「モツトー」に傍点]でありますから、園では朝から一飯もたべません。朝五時に起きて掃除がすむと、道場で約一時間ほどの読経をやります。禅が根底になつて居るやうでして、重に禅宗のお経をみんなで読みます。但、由来何宗と云ふことは無いので、園の者は「お光り」「お光り」を見る
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