海
尾崎放哉
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)糂汰瓶《じんだびん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)がらん[#「がらん」に傍点]とした
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)しと/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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庵に帰れば松籟颯々、雑草離々、至つてがらん[#「がらん」に傍点]としたものであります。芭蕉が弟子の句空に送りました句に、「秋の色糠味噌壺も無かりけり」とあります。これは徒然草の中に、世捨人は浮世の妄愚を払ひ捨てゝ、糂汰瓶《じんだびん》ひとつも持つまじく、と云ふ処から出て居るのださうでありますが、全くこの庵にも、糠味噌壺一つ無いのであります。縁を人に絶つて身を方外に遊ぶ、などと気取つて居るわけでは毛頭ありませんし、また、その柄でも勿論ないのでありますから、時々、ふとした調子で、自分はたつた一人なのかな[#「一人なのかな」に傍点]、と云ふ感じに染々と襲はれることであります。八畳の座敷の南よりの、か細い一本の柱に、たつた一つの脊をよせかけて、其前に、お寺から拝借して来た小さい低い四角な机を一つ置いて、お天気のよい日でも、雨がしと/\降る日でも、風がざわ/\吹く日でも、一日中、朝から黙つて一人で座つて居ります。
坐つて居る左手に、之も拝借もの……と云ふよりも、此庵に私がはいりました時残つて居つた、たつた一つの什器であつた処の小さな丸い火鉢が置いてあるのです。此の火鉢は殆ど素焼ではないかと思はれる程の瀬戸の黒い火鉢なのですが、其の火鉢のぐるり[#「ぐるり」に傍点]が、凡そこれ以上に毀す事は不可能であらうと思はれる程疵だらけ[#「だらけ」に傍点]にしてあります。之は必ず、前住の人が煙草好きであつて、鉄の煙管かなんかでノベツにコツンコツン[#「ノベツにコツンコツン」に傍点]毀して居た結果にちがひないと思ふのです。誠に御丹念な次第であります。此の外には道具と申してもなんにも無いのでありますから誠にがらん[#「がらん」に傍点]とし過ぎたことであります。此の南よりの一本の柱と申すのが、甚だ形勝の地位に在るので、遥かに北の空を塞ぐ連山を一眸のうちに入れると共に、前申した一本の大松と、奉供養大師堂之塔の碑とが、いつも眼の前を離れぬのであります。居ながらにして首を少
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