ごとく私をおさへてうごかさない。
底のない、幽谷の闇の曙《あけぼの》にめざめて偉大なる茫漠の胞衣《えな》をむかへる。
つよい海風のやうに烈しい身づくろひした接吻をのぞんでも、
すべて手だてなきものは欺騙者の香餌である。
わたしの躁忙は海の底に
さわがしい太鼓をならしてゐる。


  老人

わたしのそばへきて腰をかけた、
ほそい杖にたよつてそうつと腰をかけた。
老人はわたしの眼をみてゐた。
たつたひとつの光がわたしの背にふるへてゐた。
奇蹟のおそはれのやうに
わらひはじめると、
その口がばかにおほきい。
おだやかな日和《ひより》はながれ、
わたしの身がけむりになつてしまふかとおもふと、
老人は白いひげをはやした蟹のやうにみえた。


  白い髯をはやした蟹

おまへはね、しろいひげをはやした蟹だよ、
なりが大きくつて、のさのさとよこばひをする。
幻影をしまつておくうねりまがつた迷宮のきざはしのまへに、
何年といふことなくねころんでゐる。
さまざまな行列や旗じるしがお前のまへをとほつていつたけれど、
そんなものには眼もくれないで、
おまへは自分ひとりの夢をむさぼりくつてゐる。
ふかい哄笑
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