Aおん身自ら推し給へといひぬ。
 われはマリア[#「マリア」に傍線]と贄卓《にへづくゑ》の前に手を握りぬ。おほよそ市長《ボデスタ》の家にゆきかふものは、皆歡喜の聲を發しつれど、其聲の最も大いなるはポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]なりき。越ゆること二日にして、我等はロオザ[#「ロオザ」に傍線]と倶《とも》に田舍の別墅《べつしよ》に移りぬ。こはアンジエロ[#「アンジエロ」に傍線]が遺産もて買ひしものなりき。ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]は一書を我別墅に寄せて、飄然としてヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]を去りぬ。その書には、唯だ左の數句あるのみなりき。曰く、我は汝と賭して贏《か》ちたり、されど實《まこと》に贏ちしは我に非ざりきと。憐むべし、ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]が意中の人は即亦我意中の人なりしなり。
 フアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]公子とフランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]夫人とは、わが好き妻を得しを喜び、かの腹黒きハツバス・ダアダア[#「ハツバス・ダアダア」に傍線]さへ皺ある面に笑《ゑみ》を湛《たゝ》へて、我新婚を祝したり。わが昔の知人《しるひと》の僅に生き殘れるは、西班牙《スパニア》磴《とう》の下なるペツポ[#「ペツポ」に傍線]のをぢのみにて、その「ボン、ジヨオルノ」(好日)の語は猶久しく行人の耳に響くなるべし。

   琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]洞

 千八百三十四年三月六日の事なりき。旅人あまたカプリ[#「カプリ」に二重傍線]島なるパガアニイ[#「パガアニイ」に二重傍線]が客舍の一室に集ひぬ。中にカラブリア[#「カラブリア」に二重傍線]産《うまれ》の一美人ありて、群客の目を駭《おどろか》せり。その美しき黒き瞳はこれに右手《めて》を借したる丈夫《ますらを》の面に注げり。是れララ[#「ララ」に傍線]と我となり。吾等は夫婦たること既に三年、今ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]に至る途上、再び此島に遊びて、昔日奇遇の蹟《あと》を問はんとするなり。室の一隅には、又一老婦のもろ手を幼女の肩に掛けたるあり。容貌魁偉なる一外人この幼女を愛する餘りに、覺束《おぼつか》なげなる伊太利語もてその名を問ふに、幼女は遽《にはか》に答ふべくもあらねば、老婦代りてアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]と答へつ。こはララ[#「ララ」に傍線]が生みし子に附けし名にて、そを外人に告げたるはロオザ[#「ロオザ」に傍線]なり。われ進みて之と語を交へて、その※[#「王+連」、第3水準1−88−24]馬《デンマルク》人なるを知りぬ。嗚呼、是れ畫工フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]と彫匠トオルワルトゼン[#「トオルワルトゼン」に傍線]との郷人なり。フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]は今故郷に在り、トオルワルトゼン[#「トオルワルトゼン」に傍線]は猶羅馬に留れりと聞く。現《げ》に後者が技術上の命脈は斯土《このど》に在れば、その久しくこゝに居るもまた宜《むべ》なるかな。
 我等は群客と共に岸に下りて舟に上りぬ。舟はおの/\二客を舳《へさき》と艫《とも》とに載せて、漕手《こぎて》は中央に坐せり。舟の行くこと箭《や》の如く、ララ[#「ララ」に傍線]と我との乘りたるは眞先に進みぬ。カプリ[#「カプリ」に二重傍線]島の級状をなせる葡萄圃《ぶだうばたけ》と橄欖《オリワ》樹とは忽ち跡を沒して、我等は矗立《ちくりふ》せる岩壁の天に聳《そび》ゆるを見る。緑波は石に觸れて碎け、紅花を開ける水草を洗へり。
 忽ち岩壁に一小|罅隙《かげき》あるを見る。その大さは舟を行《や》るに堪へざるものゝ如し。我は覺えず聲を放ちて魔穴と呼びしに、舟人打ち微笑《ほゝゑ》みて、そは昔の名なり、三とせ前の事なりしが、獨逸の畫工二人ありて泅《およ》ぎて穴の内に入り、始てその景色の美を語りぬ、その畫工はフリイス[#「フリイス」に傍線]とコオピツシユ[#「コオピツシユ」に傍線]との二人なりきと云ひぬ。
 舟は石穴の口に到りぬ。舟人は※[#「舟+虜」、第4水準2−85−82]《ろ》を棄てゝ、手もて水をかき、われ等は身を舟中に横へしに、ララ[#「ララ」に傍線]は屏息《へいそく》して緊《きび》しく我手を握りつ。暫しありて、舟は大穹窿の内に入りぬ。穴は海面《うなづら》を拔くこと一伊尺《ブラツチヨオ》に過ぎねど、下は百伊尺の深さにて海底に達し、その門閾《もんよく》の幅も亦|略《ほ》ぼ百伊尺ありとぞいふなる。さればその日光は積水の底より入りて、洞窟の内を照し、窟内の萬象は皆一種の碧色を帶び、艪の水を打ちて飛沫《しぶき》を見るごとに、紅薔薇の花瓣を散らす如くなるなれ。ララ[#「ララ」に傍線]は合掌して思を凝らせり。その思ふところは必ずや我と同じく、曾て二人のこゝに會せしことを憶ひ
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