fを畫けり。贄卓に近づけば、卓前に三つの燈の點ぜられたるを見る。董花《すみれ》のかほり高き邊《ほとり》、覆《おほ》はざる柩の裏に、堆《うづたか》き花瓣《はなびら》の紫に埋もれたる屍《かばね》こそあれ。長《たけ》なる黒髮を額《ぬか》に綰《わが》ねて、これにも一束の菫花を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]めり。是れ瞑目せるマリア[#「マリア」に傍線]なりき。我が夢寐《むび》の間《あひだ》に忘るゝことなかりしララ[#「ララ」に傍線]なりき。われは一聲、ララ[#「ララ」に傍線]、など我を棄てゝ去れると叫び、千行《ちすぢ》の涙を屍《かばね》の上に灑《そゝ》ぎ、又聲ふりしぼりて、逝《ゆ》け、わが心の妻よ、われは誓ひて復た此世の女子《によし》を娶《めと》らじと呼び、我指に嵌《は》めたりし環を抽《ぬ》きて、そを屍の指に遷《うつ》し、頭を俯して屍の額に接吻しつ。爾時《そのとき》我血は氷の如く冷えて、五體|戰《ふる》ひをのゝき、夢とも現《うつゝ》とも分かぬ間《ま》に、屍の指はしかと我手を握り屍の唇は徐《しづ》かに開きつ。われは毛髮|倒《さかしま》に竪《た》ちて、卓と柩との皆|獨樂《こま》の如く旋轉するを覺え、身邊忽ち常闇《とこやみ》となりて、頭の内には只だ奇《く》しく妙《たへ》なる音樂の響きを聞きつ。
 忽ち温なる掌の我額を摩するを覺えて、再び目を開きしに、燈《ともしび》は明かに小き卓の上を照し、われは我枕邊の椅子に坐し、手を我頭に加へたるものゝロオザ[#「ロオザ」に傍線]なるを認め得たり。又一人の我|臥床《ふしど》の下に蹲《うづく》まりて、もろ手もて顏を掩へるあり。ロオザ[#「ロオザ」に傍線]の我に一匙の藥水を薦《すゝ》めつゝ熱は去れりと云ふ時、蹲れる人は徐《しづ》かに起ちて室を出でんとす。われ。ララ[#「ララ」に傍線]よ、暫し待ち給へ。われは夢におん身の死せしを見き。ロオザ[#「ロオザ」に傍線]。そは熱のなしゝ夢なるべし。われ。否、我夢は夢にして夢に非ず。若しこれをしも夢といはゞ、人世はやがて夢なるべし。マリア[#「マリア」に傍線]よ。われはおん身のララ[#「ララ」に傍線]なるを知る。昔はおん身とペスツム[#「ペスツム」に二重傍線]に相見《あひみ》、カプリ[#「カプリ」に二重傍線]に相見き。今この短き生涯にありて、幸にまた相見ながら、爭《いか》でか名告《なの》りあはで止むべき。我はおん身を愛す。語り畢りて手をさし伸ばせば、マリア[#「マリア」に傍線]は跪《ひざまづ》きて我手を握り、我手背に接吻したり。
 數日の後、我はマリア[#「マリア」に傍線]と柑子《かうじ》の花|香《かぐは》しき出窓の前に對坐して、この可憐なる少女の清淨なる口の、その清淨なる情を語るを聞きつ。少女の語りけらく。わが幼かりし時は、唯だ日の暖きを知り、董花の香しきを知るのみなりき。或時「チンガニイ」族のおうなありて、我目の必ず開《あ》く時あるべきを告げしが、その時期はいつなるべきか、絶て知るよしあらざりき。ペスツム[#「ペスツム」に二重傍線]の古祠の下にて、おん身の唇の暖きこと、日の暖きが如くなるを覺えし夕、彼おうな夢に見えて、汝のやしなひ親なるアンジエロ[#「アンジエロ」に傍線]とともに、カプリ[#「カプリ」に二重傍線]の島なる窟《いはむろ》に往け、アンジエロ[#「アンジエロ」に傍線]は富貴を獲べく、汝はトビアス[#「トビアス」に傍線]の如く、(舊約全書を見よ)光明を獲べしと云ひぬ、醒めて後アンジエロ[#「アンジエロ」に傍線]に語れば、これも同じ夜に同じ夢を見き。アンジエロ[#「アンジエロ」に傍線]は我を伴ひて島に渡りしに、天使はおん身に似たる聲して我名を呼び、我に藥艸を與へき。歸りて之を煮んとする時、ロオザ[#「ロオザ」に傍線]が兄なる人我等の住める草寮《こや》に憩ひて、我目の開《あ》くべきを見窮《みきは》め、我を拿破里に率《ゐ》て往きぬ。手術は功を奏せり。ロオザ[#「ロオザ」に傍線]が兄なる醫師《くすし》は、我を養ひて子となし、希臘《ギリシア》にてみまかりし子の名を取りて、我をマリア[#「マリア」に傍線]と呼びぬ。ある日アンジエロ[#「アンジエロ」に傍線]は、忽ち醫師のもとに來て、われは命の久しからざるべきを知りぬ、我が貯へし金を讓らん人ララ[#「ララ」に傍線]ならではあらざるべし、先づこれをあづけまゐらせんとて、金あまた取出《とうで》て、逗留すること數日にして眠るが如くみまかりぬ。われはさきの夜の席《むしろ》にて、おん身の舟人の不幸を歌ひ給ふを聞き、おん身の聲を聞き知りて、直ちにおん身の脚下に跪きぬ。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が末期《まつご》の詞の我に希望の光明を與へしと、おん身のつれなき旅立の我を病に臥さしめしとは
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