}へて、あるじはおん身來まさば、案内《あない》することを須《もち》ゐざれと宣給《のたま》ひぬといふ。そのさま吾が至るを期《ご》したるに似たり。廣間には幌《とばり》を卸《おろ》して、闃《げき》として物音を聞かず。われは、是れデスデモナ[#「デスデモナ」に傍線]が悲歎せし處なるべし、されどオテルロ[#「オテルロ」に傍線]の苦痛はこれより甚しかりしならんとおもひぬ。わが此時恰も此念をなしゝも、亦頗るあやしき事なり。既にして導かれてロオザ[#「ロオザ」に傍線]が房《へや》に入るに、こゝも幌を垂れて日光を遮りたれば、外より入るものはその暗きに驚かんとす。わがミラノ[#「ミラノ」に二重傍線]にて覺えし奇《く》しき情、我を驅りてヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]へ來させし奇しき情は忽《たちまち》又起りて、その幻術に似たる力は一層の強さを加へ、我手足は震慄せり。われは手もて壁を支へて、僅に地に倒れざることを得たり。
 主人《あるじ》は温顏もて我を迎へ、我身を囘抱して、再見の喜を述べたり。われは二婦人の何處《いづく》に在るを問ひぬ。彼等は親族と共にパヅア[#「パヅア」に二重傍線]に往きたり、二三日の後ならでは歸り來ざるべしといふ。その面色その態度を察するに、何とやらん言を構へて我を欺く如くなり。されどわれは又此人の平生を顧みて、わが疑の邪推なるべきをおもへり。主人は我を留めて晩餐を供せり。卓に就《つ》きたる間、我は限なき寂寞を感じ、又主人の面の爽《さはや》かならざるを覺えぬ。われはおそる/\その不興の因由《もと》を問ひしに、主人頭を掉《ふ》りて[#「掉りて」は底本では「悼りて《ふ》りて」]、否、益《やく》なき訴訟の事ありて、些《ちと》の不安を感ずるに過ぎず、ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]は久しくおとづれず、おん身さへ健康すぐれ給はざる如し、兎も角も此|一盃《ひとつき》を傾け給へといひつゝ、我前なる杯に葡萄酒を注がんとせしに、忽ちその手を駐《とゞ》めて、おん身は心地惡しきにはあらずやと叫びぬ。そは我面色の土の如く變じたればなるべし。われは室内《へやぬち》の物の旋風の如く動搖するを覺えて、そのまゝはたと地に僵《たふ》れぬ。
 此より我は半醒半睡の間に在ること幾日なるを知らず。市長は時として我|臥床《ふしど》の傍に坐して、われに心を安んじて全快を待たんことを勸め、ロオザ[#「ロオザ」に傍線]の遠からず來りて病を瞻《み》るべきを告げたり。或日家の内騷がしく、人の到着しつと覺しきさまなりしに、忽ちロオザ[#「ロオザ」に傍線]は吾前に來ぬ。その面には憂の色を帶びたり。その日の暮つかた、われは家内《やぬち》の又さきにも増して物騷がしきを覺え、側なる奴婢《ぬひ》に問はんとするに、一人として我に答ふるものなし。階下の室には人多くゆききする足音《あのと》頻《しきり》に、屋外の大渠《たいきよ》には小舟の梶音《かぢのと》賑はしかりき。われは暫し目蕩《まどろ》みしに、ふとマリア[#「マリア」に傍線]の死せることを知り得たり。さきにはポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]我にマリア[#「マリア」に傍線]の病を告げて、その病は※[#「やまいだれ+差」、第4水準2−81−66]《い》えぬと云へり。されど病は再發して、マリア[#「マリア」に傍線]は既に死し、家人は我に祕して、こよひそを葬るなり。われは明かにロオザ[#「ロオザ」に傍線]の祈祷の聲を聞き、マリア[#「マリア」に傍線]の菫花もて飾れる棺は明かに心目の前にあらはれぬ。忽ち我は病の既に去りて力の既に復せるを感じ、蹶然《けつぜん》として臥床《ふしど》より起ち、人の我側に在らざるに乘じて、壁に懸けたる外套を纏ひ、岸邊なる小舟を招きて、「デイ、フラアリイ」の寺に往かんことを命じつ。こは市長《ボデスタ》が累世の墓ある處にして、われは曾て一たび其窟墓を窺ひしことありき。夜は暗くして、「アヱ、マリア」の鐘と共に閉されたる門の前には人影早や絶えたり。われは扉をほと/\と敲《たゝ》きしに、寺僮は我が爲めに門を開きつ。そは曾てわが市長に伴はれて來ぬる時、我にチチヤノ[#「チチヤノ」に傍線]とカノワ[#「カノワ」に傍線]との墓を指《ゆびざ》し教へしことあれば、猶我面を見知り居たりしなり。寺僮は我心を計《はか》り得て、君は遺骸を見に來給ひしならん、今は猶|贄卓《にへづくゑ》の前に置かれたれど、あすは龕《がん》に藏《をさ》めらるべしとて、燭を點して我を導き、鑰匙《かぎ》取り出でゝ側なる小き戸を開きつ。寺僮と我との足音は、穹窿の間《あひだ》に寂しき反響を喚起せり。寺僮の柩《ひつぎ》はかしこにと指して、立ち留まるがまゝに、我はひとり長廊を進めり。聖母《マドンナ》の御影の前に、一燈微かに燃え、カノワ[#「カノワ」に傍線]が棺のめぐりなる石人は朧氣なる輪
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