ト導者の言を記せり、年の頃は三十ばかりなるべし。胸には拿破里《ナポリ》の勳章二つを懸けたり。此旅人の迫持《せりもち》の石柱を仰ぎ見るに及びて、我はそのベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]なるを識《し》りぬ。彼方も亦直ちに我を認め得つとおぼしく、何の猶豫《ためら》ふさまもなく、我側に歩み寄りて我胸を抱き、めづらしきかな、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]、われ等の相別れし夕は賑やかなりき、われ等は祝砲をさへ放ちたり、されど想ふに我等の友情は舊《もと》の如くなるべしといひぬ。我は肌《はだへ》の粟《あは》を生ずる心地しつゝ、纔《わづか》に口を開きて、さてはベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]なりしよ、圖《はか》らざりき、おん身と伊太利の北のはてなる、アルピイ[#「アルピイ」に二重傍線]山の麓にて相見んとはと答へつ。
 我等は共に歩みて新劇場の邊に往き、轉じて市《まち》の廓《くるわ》に入りぬ。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は道すがら語りていふやう。汝は此地を指してアルピイ[#「アルピイ」に二重傍線]山の麓といへり。われはまことのアルピイ[#「アルピイ」に二重傍線]の巓《いただき》に登りて世界の四極《よものはて》を見たり。曩《さき》に拿破里に在りし時、獨逸の士官等の、瑞西《スイス》の山水を説くを聞き、一たび往いて觀んことを願ふこと漸く切なるに、汽船もて達し易きジエノワ[#「ジエノワ」に二重傍線]を距ること遠くもあらぬを知れば、意を決して往くことゝしつ。シヤムニイ[#「シヤムニイ」に二重傍線]の谿《たに》をも渡りぬ。モンブラン[#「モンブラン」に二重傍線]の頂にも、ユングフラウ[#「ユングフラウ」に二重傍線]の頂にも登りぬ。現《げ》にユングフラウ[#「ユングフラウ」に二重傍線]は「ベルラ、ラガツツア」(美少女)なれど、かくまで冷かなる女子は復た有るべからず。これよりはジエノワ[#「ジエノワ」に二重傍線]に往きて、約束せし妻とその父母とを訪《とぶら》はんとす。もはや眞面目なる一家のあるじとならんも遠からぬ程なるべし。汝若し我が昔日の生涯を語らず、彼の馴るゝ小鳥の事、愛らしき歌妓の事などを祕せんと誓はゞ、われは汝を伴ひてジエノワ[#「ジエノワ」に二重傍線]に往くべし。いかに、三日の後に我と共に發足せずやといひぬ。われ。否々、我は明日《あす》此地を立たんとす。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]。そは何處《いづく》へ往くにか。われ。ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]に往くなり。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]。汝が漫遊の日程は、よも變更を容《ゆる》さぬにはあらざるべし。枉《ま》げて我言に從はずや。われはベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]にかく説き勸められて、反復しておのれのヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]に往かざるべからざるを辯じ、果は自らこの漫然口を衝いて發せし語の、實にその故あるが如きを覺ゆるに至りぬ。
 われは客舍に返りて、不可思議なる力に役せらるゝものゝ如く、倉皇《さうくわう》我行李を整へ、あるじに明朝の發※[#「車+刃」、第4水準2−89−59]《はつじん》を告げたり。此夜は臥床《ふしど》に入れども、胸打ち騷ぎて熱を病むものゝ如く、眠をなさゞること久しかりき。翌朝ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]を訪ひて、我が爲めに善くその未來の妻に傳へんことを頼み聞え、忙はしく車を驅りてヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]に向ひぬ、二月前に去りしヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]に。

   心疾身病

 車はフジナ[#「フジナ」に二重傍線]に到りぬ。われは又泥深き海、衣色の石垣、「マルクス」寺の塔を望むことを得たり。怪むべし、われは足一たびヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の地を踏むと齊《ひと》しく、吾心の劇變せるを覺えき。今までヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]へ、ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]へと呼びし意欲は俄に迹《あと》を※[#「楫のつくり+戈」、第3水準1−84−66]《をさ》めて、一種の言ふべからざる羞慚《しうざん》の情生じ、人の汝は何故に復た來れると問はゞ、辭の答ふべきなからんと氣遣ふやうになりぬ。
 われは直ちに舊寓に入りて、衣服を改め、身の疲れたるをも顧みで、市長《ボデスタ》の家に往きぬ。舟の苔を被れる屋壁と高き窓とに近づくとき、怪しき映象は我胸に浮びぬ。そはわれ若しマリア[#「マリア」に傍線]が結婚の席に往きあはゞいかにといふことなりき。われは此|念《おもひ》の頭を擡《もた》げ來るを見て、又急にこれを抑へ、否、われは求婚の爲めに往くならねば、そも亦|妨《さまたげ》なしと云ひぬ。されど我心は遂に全く平《たひらか》なること能はざりき。
 門《かど》を叩けば僕《しもべ》出で
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