ハを射て白光身を繞《めぐ》り、ここの塔かしこの龕《がん》を見めぐらせば、宛然《さながら》立ちて一の大逵《ひろば》に在るごとし。許多《あまた》の聖者《しやうじや》獻身者の像にして、下より望み見るべからざるものは、新に我|目前《まのあたり》に露呈し來れり。われは絶頂なる救世主の巨像の下に到りぬ。ミラノ[#「ミラノ」に二重傍線]全都の人烟は螺紋《らもん》の如く我脚底に畫かれたり。北には暗黒なるアルピイ[#「アルピイ」に二重傍線]の山聳え、南には稍※[#二の字点、1−2−22]低き藍色のアペンニノ[#「アペンニノ」に二重傍線]横はりて、此間を填《うづ》むるものは、唯だ緑なる郊原のみ。譬へばカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野を變じて一の花卉《くわき》多き園囿《ゑんいう》となしたらんが如し。われは眦《まなじり》を決して東のかたヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]を望みたるに、一群の飛鳥ありて、列を成してかなたへ飛び行くさま、一片の帛《きぬ》の風に翻弄せらるゝに似たり。われはマリア[#「マリア」に傍線]を憶ひ、ロオザ[#「ロオザ」に傍線]を憶ひ、ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]を憶へり。昔幼かりし時、母とマリウチア[#「マリウチア」に傍線]とに伴はれて、ネミ[#「ネミ」に二重傍線]の湖に往きしかへるさ、アンジエリカ[#「アンジエリカ」に傍線]が我に物語りし事こそあれ。その物語は今我空想に浮び來ぬ。オレワアノ[#「オレワアノ」に二重傍線]にテレザ[#「テレザ」に傍線]といふ少女ありき。戀人なるジユウゼツペ[#「ジユウゼツペ」に傍線]が山を踰《こ》えて北の國に往きしより、戀慕の念止むことなく、日を經るに從ひて痩せ衰へぬ。フルヰア[#「フルヰア」に傍線]の老媼《おうな》はテレザ[#「テレザ」に傍線]の髮とその藏め居たりしジユウゼツペ[#「ジユウゼツペ」に傍線]の髮とを銅銚《どうてう》に投じて、奇《く》しき藥艸と共に煮ること數日なりき。ジユウゼツペ[#「ジユウゼツペ」に傍線]は他郷に在りしが、我毛髮の彼銚中に入ると齊《ひと》しく、今まで忘れ居つるテレザ[#「テレザ」に傍線]の慕はしくなりて、醒めては現《うつゝ》に其聲を聞き、寢《い》ねては夢に其姿を視、そぞろに旅のやどりを立出でゝ、おうなが銚《なべ》の下に歸りぬといふ。ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]には我髮を烹《に》る銚あるにあらねど、わがこれを憶ふ情は、恰も幻術の力の左右するところとなれるが如くなりき。われ若し山國《やまぐに》の産《うまれ》ならば、此情はやがて世に謂《い》ふ思郷病《ノスタルジア》なるべし。(歐洲人は思郷病は山國の民多くこれを患《わづら》ふとなせり。)されど又ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]のわが故郷ならぬを奈何《いかに》せむ。われは悵然《ちやうぜん》として此寺の屋上《やね》より降りぬ。
 客舍に歸れば、卓上に一封の書《ふみ》あるを見る。こはポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]が許より來れるなり。これを讀むに、袂を分ちてより第二の書を作る云々と書せり。さらば友の初の一書は我手に入るに及ばずして失はれしなるべし。ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]には何の變りたる事もあらねど、マリア[#「マリア」に傍線]は病に臥《こや》したり。その病のさま一時は性命をさへ危くすべくおもはれぬれど、今は早や恢復に近し。猶|戸外《そと》には出でずとなり。末文には、例の戲言《ざれごと》多く物して、まだミラノ[#「ミラノ」に二重傍線]の少女に擒《とりこ》にせられずや、三鞭酒《シヤンパニエ》をな忘れそなど云へり。われは讀み畢りて、ポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]が滑稽の天性にして、世の人のそを假面《めん》と看做《みな》すことの謬《あやま》れるを信ぜんとせり。さればこそ同じ無稽の巷説は、わがマリア[#「マリア」に傍線]を敬することロオザ[#「ロオザ」に傍線]を敬すると殊ならざるを見ながら、謬りて我をもてマリア[#「マリア」に傍線]に戀するものとなすなれ。
 われは消遣《せうけん》の爲めに市の外廓より出でゝ、武具の辻(ピアツツア、ダルミイ)を過ぎ、拿破崙《ナポレオン》の凱旋塔の下に至りぬ。世のいはゆるセムピオオネ[#「セムピオオネ」に二重傍線]の門(ポルタ、セムピオオネ)とは是なり。塔は猶未だ其工事を終らず、板がこひを繞《めぐ》らして、これに格子戸を裝ひたり。戸より入りて見れば、新に大理石もて彫《ゑ》り成せる大いなる馬二頭地上に据ゑられ、青艸《あをくさ》はほしいまゝに長じて趺石《ふせき》を掩はんと欲す。四邊《あたり》には既に刻める柱頭あり、粗《あら》ごなししたる石塊あり。許多《あまた》の工人は織るが如くに來往せり。
 時に一の旅人ありて我を距《へだた》ること數歩の處に立ち、手簿《しゆぼ》を把《と》り
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