フ市人《いちびと》の石榻《せきたふ》に坐せるさまは、猶|古《いにしへ》のごとくにて、演ずる所の曲をば、「ラ、ジエネレントオラ」と題せり。役者の群は、ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]にて見しアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が組なりき。アウレリア[#「アウレリア」に傍線]はこよひも此樂曲の主人公に扮したり。一|張《はり》の「コントルバス」に氣壓《けお》さるゝ若干の管絃なれど、聽衆は喝采の聲を惜まざりき。趨《はし》りて場を出づれば、月光|遍《あまね》く照して一塵動かず、古の劇場の石壁石柱は※[#「山/歸」、第3水準1−47−93]然《きぜん》として、今の破《や》れ小屋のあなたに存じ、廣大なる黒影を地上に印せり。
 我はカプレツチイ[#「カプレツチイ」に傍線]第《だい》を訪ひぬ。昔カプレツチイ[#「カプレツチイ」に傍線]、モンテキイ[#「モンテキイ」に傍線]の二豪族相爭ひて、少年少女の熱情を遮り斷ちしに、死は能くその合ふべからざるものを合せ得たり。シエエクスピイア[#「シエエクスピイア」に傍線]がものしつる「ロメオ、エンド、ジユリエツト」の曲即ち是なり。此第はロメオ[#「ロメオ」に傍線]が初てジユリエツト[#「ジユリエツト」に傍線]に來り見《まみ》えて共に舞ひし所にして、今は一の旅館となりぬ。われはロメオ[#「ロメオ」に傍線]の夜な/\通ひけん石の階《きざはし》を踐《ふ》みて、曾《かつ》て盛に聲樂を張りてヱロナ[#「ヱロナ」に二重傍線]の名流をつどへしことある大いなる舞臺に上りぬ。闊《ひろ》き窓の下鋪板《しもゆか》に達するまでに切り開かれたる、丹青《たんせい》目を眩《くらま》したりけん壁畫の今猶微かに遺《のこ》れるなど、昔の豪華の跡は思はるれど、壁の下には石灰の桶いくつともなく並べ据ゑられ、鋪板《ゆか》には芻秣《まぐさ》、藁《わら》などちりぼひ、片隅には見苦しき馬具と農具との積み累《かさ》ねられたるを見る。まことに榮枯盛衰のはかなきこと、夢まぼろしはものかは。さればこの假の世を、フラミニア[#「フラミニア」に傍線]の厭ひしも、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の去りぬるも、なかなかに慰む方ありとやいふべき。
 月の末にミラノ[#「ミラノ」に二重傍線]に着きぬ。新に交を求めん心なければ、人の情《なさけ》の紹介幾通かありしを、一としてその宛名の家にとゞくることなかりき。一夜「ラ、スカラ」座に入りて樂曲を聽きたり。帷《とばり》を垂れたる六層の觀棚《さじき》も、積《せき》あまりに大いにして客常に少ければ、却りて我をして一種の寂寥と沈鬱とを覺えしめき。奏する所の曲は「タツソオ[#「タツソオ」に傍線]」にして、主《おも》なる女優はドニチエツチイ[#「ドニチエツチイ」に傍線]といふものなりき。一|折《せつ》畢《をは》るごとに、客の喝采してあまたゝび幕の外に呼び出すを、愛らしき笑がほして謝し居たり。わが厭世の眼は、この笑《ゑみ》の底におそろしき未來の苦惱の濳めるを見て、あはれ此|美人《うまびと》目前に死せよ、さらば世間もこれが爲めに泣くことなか/\に少かるべく、美人も世を恨むことおのづから淺からんとおもひぬ。「バレツトオ」の舞には玉の如き穉《をさな》き娘達打連れて踊りぬ。われはその美しさを見るにつけて、血を嘔《は》くおもひをなしつゝ、悄然として場を出でたり。
 ミラノ[#「ミラノ」に二重傍線]の客舍の無聊《ぶれう》は日にけにまさり行きて、市長の家族も、親友と稱せしポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]も我書に答ふることなかりき。われは或ときは蔭多き衢《ちまた》をそゞろありきし、或ときは一室に枯坐して新に戲曲の稿を起しつ。曲の主人公はレオナルドオ・ダ・ヰンチ[#「レオナルドオ・ダ・ヰンチ」に傍線]なりき。レオナルドオの住みしは此地なり。その不朽の名畫晩餐式はこゝに胚胎《はいたい》せしなり。その戀人の尼寺の垣内《かきぬち》に隱れて、生涯相見ざりしは、わがフラミニア[#「フラミニア」に傍線]に於ける情と古今|同揆《どうき》なりとやいはまし。
 われは日ごとにミラノ[#「ミラノ」に二重傍線]の大寺院に往きぬ。此寺はカルララ[#「カルララ」に二重傍線]の大理石もて、人の力の削り成しし山ともいふべく、月あかき夜に仰ぎ見れば、皎潔《けうけつ》雪を欺《あざむ》く上半の屋蓋は、高く碧空に聳えて、幾多の簷角《えんかく》、幾多の塔尖より石人の形の現れたるさま、この世に有るべきものともおもはれず。晝その堂内に入れば、採光の程度ほゞ羅馬の「サン、ピエトロ」寺に似て、五色の窓硝子より微かに洩るゝ日光は、一種の深祕世界を幻出し、人をして唯一の神こゝに在《いま》すかと觀ぜしむ。ミラノ[#「ミラノ」に二重傍線]に來てより一月の後、我は始て此寺の屋上《やね》に登りぬ。日は石
前へ 次へ
全169ページ中163ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
アンデルセン ハンス・クリスチャン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング