T線]に渡し給へといひぬ。おん身の上をば、妹の兄の上を語るらんやうに語りぬ。爾時《そのとき》アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が唇は血に染まり居たり。死は遽《にはか》に襲ひ至りて、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]はわが面をまもりつゝこときれ侍《はべ》りと、語りもあへず、マリア[#「マリア」に傍線]は泣き伏したり。われは詞はあらで、マリア[#「マリア」に傍線]の手を握りつ。
われは寺院に往きてアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が爲めに祈祷し、又その墓に尋ね詣《まう》でつ。此地の瑩域《えいゐき》は、高き石垣もて水面《みのも》より築き起されたるさま、いにしへのノア[#「ノア」に傍線]が舟の洪水の上に泛《うか》べる如し。草むらの中に黒き十字架あまた立てるあたりに歩み寄れば、わが尋ぬる墓こそあれ。只是一片の石に、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]と彫り付けたり。一基の十字架の上に、緑の色の猶|鮮《あざやか》なる月桂《ラウレオ》の環を懸けたるは、ロオザ[#「ロオザ」に傍線]とマリア[#「マリア」に傍線]との手向《たむけ》なるべし。われは墓前に跪《ひざまづ》きて、亡人《なきひと》の悌《おもかげ》をしのび、更に頭《かうべ》を囘《めぐら》して情あるロオザ[#「ロオザ」に傍線]とマリア[#「マリア」に傍線]とに謝したり。
流離《さすらひ》
その頃フアビアニ[#「フアビアニ」に傍線]公子の書状屆きしに、文中公子のわがヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]に留まること四月の久しきに至るを怪み、強ひてにはあらねど、我にミラノ[#「ミラノ」に二重傍線]若《もし》くはジエノワ[#「ジエノワ」に二重傍線]に遊ばんことを勸めたる一節あり。われつら/\念《おも》ふやう。わが猶此地に留まれるは、そも/\何の故ぞや。此地にはげに兄弟に等しきポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]あり、姉妹に等しきロオザ[#「ロオザ」に傍線]、マリア[#「マリア」に傍線]あれど、是等の交《まじはり》は永遠なるべきものにあらず。中にも女友二人の如きは、相見るごとに我が悲哀の記憶を喚び醒《さま》すことを免れず。われは悲哀を懷《いだ》いてヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]に來ぬ。而してヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]は更に我に悲哀を與へしなり。われは遽《にはか》にヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]を去らんと欲する心を生じて、そを告げんために、市長《ボデスタ》の家をおとづれたり。
月光始めて渠水《きよすゐ》に落つるころほひ、我は二女と市長の家の廣間なる、水に枕《のぞ》める出窓ある處に坐し居たり。マリア[#「マリア」に傍線]はすでに一たび燈火《ともしび》を呼びしかど、ロオザ[#「ロオザ」に傍線]がこの月の明《あか》きにといふまゝに、主客三人は猶月光の中に相對せり。マリア[#「マリア」に傍線]はロオザ[#「ロオザ」に傍線]に促されて、穴居洞の歌を歌ひぬ。聲と情との調和好き此一曲は、清く軟かなる少女《をとめ》の喉《のど》に上りて、聞くものをして積水千丈の底なる美の窟宅を想見せしむ。ロオザ[#「ロオザ」に傍線]。この曲には音節より外、別に一種の玲瓏たる精神ありとはおぼさずや。われ。洵《まこと》に宣給《のたま》ふごとし。若し精神といふもの形體を離れて現ぜば、應《まさ》に此詩の如くなるべし。マリア[#「マリア」に傍線]。生れながらに目しひなる子の世界の美を想ふも亦是の如し。ロオザ[#「ロオザ」に傍線]。さらば目|開《あ》きての後に、實世界に對せば、初の空想の非なることを知るならん。マリア[#「マリア」に傍線]。實世界は空想の如く美ならず。されど又空想より美なるものなきにあらず。話頭は直ちにマリア[#「マリア」に傍線]が初め盲目なりし事に入りぬ。こはポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]が早く我に語りしところなれども、今はわれ二女の口より此物語を聞きつ。ロオザ[#「ロオザ」に傍線]は弟の手術を讚め、マリア[#「マリア」に傍線]も亦その恩惠を稱《たゝ》へたり。マリア[#「マリア」に傍線]の云ふやう。目しひなりし時の心の取像《しゆざう》ばかり奇《く》しきは莫《な》し。先づ身におぼゆるは日の暖さ、手に觸るゝは神社の圓柱《まろばしら》の大いなる、霸王樹《サボテン》の葉の闊《ひろ》き、耳に聞くはさま/″\の人の馨音《こわね》などなり。一の官能の闕《か》くるものは、その有るところの官能もて無きところのものを補ふ。人の天青し、海青し、菫《すみれ》の花青しといふを聽きて、われは董の花の香を聞き、そのめでたさを推し擴めて、天のめでたかるべきをも海のめでたかるべきをも思ひ遣りぬ。視根の光明闇きときは、意根の光明却りて明なるものにやといふ。これを聞く我は、ララ[#「ララ」に傍線]が髮に※[#「
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