轣tも續きてあらずなり、私は形影相|弔《てう》すとも申すべき身となり候ひぬ。されど年猶|少《わか》く色未だ衰へずして、身には習ひおぼえし技藝あれば、舞臺に上るごとに、萬人の視線一身に萃《あつ》まり、喝采の聲我心を醉はしめて、しばし心の憂さを忘れ候ひぬ。是れまことのアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が最終の一年に候ひき。私はボロニア[#「ボロニア」に二重傍線]に赴《おもむ》く旅路にて、ふと病に染まり候ひぬ。初こそは唯だかりそめの事とおもひ候ひつれ、君に棄てられまつりてよりの、人知れぬ苦痛は、我が病に抗すべき力を奪ひて、一とせが程は頭をだにえ擡《もた》げず候ひき。こゝに君に棄てられぬと書きしをば、許させ給へ。私はその頃、君の猶我身を忘れ給はで、世の人の皆我身を顧みざるに至りて、今一たび我手に接吻し給ふべきをば、夢にだに思得候はざりしなり。二とせの間、劇場にて貯へし金をば、藥餌の料に費《つひや》し盡し候ひぬ。病は※[#「やまいだれ+差」、第4水準2−81−66]《い》えぬれども、聲潰れたれば、身を助くべき藝もあらず、貧しきが上に貧しき境界《きやうがい》に陷いり、空しく七年の月日を過して、料《はか》らずも君にめぐりあひ候ひぬ。君はこよひの舞臺にて、むかし羅馬の通衢《ちまた》を驅《か》るに凱旋の車をもてせしアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]がいかに賤客に嘲《あざけ》られ、口笛吹きて叱責せられたるかを見そなはし給ひしなるべし。私は運命の蹙《せば》まりしと共に、胸狹くなりしを自ら覺え居候。扨《さて》見苦しき假住ひに御尋下され候時、我目を覆ひし面紗《ヱエル》の忽ち落つるが如く、君の初より眞心もて我を愛し給ひしことを悟り候ひぬ。汝こそは我を風塵中に逐ひ出しつれとは、君の御詞なりしかど、私のいかに君を慕ひまゐらせ、いかに君の方《かた》へ手をさし伸べ居たりしをば、君のしろしめさゞりしを奈何《いかに》かせん。私は再び君に見《まみ》ゆることを得て、君の温なる唇を我手背に受け候ひぬ。今や戸外に送りいだしまゐらせて、私は再び屋根裏の一室に獨坐し居り候。この室をば直ちに立退き申すべく、此ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]をも直ちに立去り申すべく候。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]の君よ。願はくは我が爲めに徒《いたづ》らに歎き悲み給ふな。私は世には棄てられ候へども、聖母《マドンナ》は私を護り給ふこと、君を護り給ふに同じかるべく候。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]の君よ、さきには我を思ひ棄て給へと申候へども、未錬ともおぼさばおぼせ、猶親しかりし人のみまかりしを思ひ給ふが如く、我を思ひ給はんことのみは望ましく存※[#「まいらせそろ」の草書体文字、145−中−19]。
[#ここで字下げ終わり]
 涙は讀むに隨ひて流れ、わが心の限の涙と化して融け去るを覺えたり。此より下は、かすかなる薄墨の痕猶|新《あらた》にして、數日前に寫されしものと知らる。
[#ここから1字下げ]
苦を受くる月日も最早|些子《ちと》を餘し候のみと存※[#「まいらせそろ」の草書体文字、145−中−25]。今まで受けつるあらゆる快樂の聖母の御惠なると等しく、今まで受けつるあらゆる苦痛も亦聖母の御惠と存※[#「まいらせそろ」の草書体文字、145−中−27]。死は既に我胸に迫り候。血は我胸より漲り流れ候。いま一囘轉して漏刻の水は傾け盡され申すべく候。人の傳へ候ところに依れば、ヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]第一の美人は君がいひなづけの妻となり居候由に候。私の死に臨みての願は、御二人の永く幸福を享《う》け給はんことのみに候、あはれ、此數行の文字を托すべき人は、その人ならで又誰か有るべき。その人の私の請《こひ》を容れて、こゝに來給ふべきをば、何故か知らねど、牢《かた》く信じ居※[#「まいらせそろ」の草書体文字、145−下−8]。生死の境に浮沈し居る此身の、一杯の清き水を求むべき手は、その人の手ならではと存※[#「まいらせそろ」の草書体文字、145−下−10]。さらば/\、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]の君よ。私の此土に在りての最終の祈祷、彼土に往きての最初の祈祷は、君が御上と、私の徒《いたづ》らに願ひてえ果さず、その人の幸ありて成し遂げ給ふなる、君が偕老の契《ちぎり》の上とに在るのみなることを、御承知下され度存※[#「まいらせそろ」の草書体文字、145−下−15]。今更|繰言《くりごと》めき候へども、聖母の我等二人を一つにし給はざりしは、其故なからずやは。私は世人にもてはやされ讚め稱《たゝ》へられて、慢心を増長し居候ひぬれば、君にして當時私を娶《めと》り給ひなば、君の生涯は或は幸福を完うし給ふこと能はざりしにあらずやと存※[#「まいらせそろ」の草書体文字、145−下−21]。さ
前へ 次へ
全169ページ中159ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
アンデルセン ハンス・クリスチャン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング