揩スば、婚禮の日に三鞭酒《シヤンパニエ》二瓶を飮ませ給へ。われ。尤《もつと》も好し、その酒をば君こそ我に飮ましめ給はめ。
 友は我を拉《ひ》いて市長《ボデスタ》の許に至りぬ。市長とロオザ[#「ロオザ」に傍線]とは戲言《ざれごと》まじりに我無情を譴《せ》め、おとなしきマリア[#「マリア」に傍線]は局外に立ちて主客の爭をまもり居たり。ロオザ[#「ロオザ」に傍線]が杯を擧げて、我健康を祝せんとする時、友は急に遮《さへぎ》りて、否々、凡そ婦人たるものは、決してアントニオ[#「アントニオ」に傍線]が健康を祝すべからず、そは此男終身|娶《めと》らずと誓ひぬればなりといふ。市長。そは「アバテ」の天才より産まれし思想中の最も惡しきものなり。されどそを吹聽《ふいちやう》せんも氣の毒なり。友。吾意見は御主人とは異なり。かゝる惡しき思想をば梟木《けうぼく》に懸けて、その腦裏に根を張らざるに乘じて、枯らし盡さゞるべからずといひぬ。佳※[#「肴+殳」、第4水準2−78−4]《かかう》美酒は我前に陳ぜられて、我をしてアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の或は飢渇に苦むべきを想はしめぬ。辭して出づるとき、ロオザ[#「ロオザ」に傍線]は我に日ごとにおとづれて、シルヰオ・ペリコ[#「シルヰオ・ペリコ」に傍線]の集を朗讀すべきことを契らしめき。
 わが日ごとに市長《ボデスタ》の家に往くこと、はや一月となりぬ。此間我は絶てアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が消息を聞くこと能はざりき。ある夕例の如く市長がりおとづれしにマリア[#「マリア」に傍線]は思ふところありげにて、顏には深き憂の痕《あと》を印したり。朗讀畢りて、ロオザ[#「ロオザ」に傍線]席を起ちて去りぬ。我とマリア[#「マリア」に傍線]との陪席者なくて對坐するはこれを始とす。我は冥々《めい/\》の裡《うち》に、一の凶音の來り迫るを覺えながら、強ひて口を開きて、ペリコ[#「ペリコ」に傍線]の政客たる生活の其詩に及ぼしゝ影響を説き出しつ。マリア[#「マリア」に傍線]は忽ち容《かたち》を改めて、「アバテ」の君と呼び掛けたり。その聲調は、始て我をしてさきよりの月旦評の毫《がう》もマリア[#「マリア」に傍線]が耳に入らざりしを悟らしめき。「アバテ」の君、我はおん身に語るべきことあり、此會談は我が瀕死の人と結びし約束の履行なり、日ごろ疎《うと》からぬおん身に聞かせまつることながら、これを語る苦しさをば察し給へといふ。その面は色を失ひて、唇は打顫へり。我が、あな、何事のおはせしぞと驚き問ふ時、マリア[#「マリア」に傍線]は兜兒《かくし》の中より、一封の書《ふみ》を取出《とうで》て、さて語を續《つゞ》けて云ふやう。不可思議なる神の御手《みて》は、我を延《ひ》きておん身の生涯の祕密の裡に立ち入らしめ給ひぬ。されど心安くおもひ給へ。われは沈默を死者に誓ひしが故に、ロオザ[#「ロオザ」に傍線]にだに何事をも語らざりき。祕密の何物なるかは、此封を開かば明《あきらか》ならん。これを我手に受けてより、はや二日を過ぎぬ。今おん身にわたしまゐらせて、我は約を果し侍りぬといふ。われ、その死者とは何人ぞ、此|書《ふみ》は何人の手より出でしぞと問ふに、マリア[#「マリア」に傍線]、そは御身の祕密なるものをとて、起ちて一間を出でぬ。
 家に歸りて封を啓《ひら》けば、内より先づ二三枚の紙出でたり。先づ取上げたる一枚は我手して鉛筆もてしるせる詩句なりき。紙の下端には墨汁《インク》もて十字三つを劃したるさま、何とやらん碑銘にまぎらはしくおぼゆ。此詩句は、わが初めてアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]を見つるとき、觀棚《さじき》より舞臺に投げしものなり。さては此一封をマリア[#「マリア」に傍線]に托しきといふはアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]なりしか。死せしはアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]なりしか。
 紙の間には別に重封《かさねふう》の書《ふみ》ありて、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]樣へとうは書《がき》せり。遽《あわたゞ》しく裂きて中なる書《ふみ》をとりいだすに、いと長き消息の、前半は墨濃く筆のはこびも慥なれど、後半は震ふ筆もて微《かす》かに覺束なくしるされたるを見る。其文に曰く。
[#ここから1字下げ]
文《ふみ》して戀しく懷かしきアントニオ[#「アントニオ」に傍線]の君に申上《まうしあげ》※[#「まいらせそろ」の草書体文字、144−上−6]《まゐらせそろ》。今宵はゆくりなくも、おん目に掛り候ひぬ、再びおん目にかゝり候ひぬ。こは久しき程の願にて、又此願のかなはん折をいと恐ろしくおもひしも、久しき程の事にて候。譬へば死をば幸を齎《もたら》すものぞと知りつゝも、死の到來すべき瞬間をば、限なく恐ろしくおもふが如くなるべく候
前へ 次へ
全169ページ中157ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
アンデルセン ハンス・クリスチャン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング