黷ツところを馳せ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]るに似て、一日一夜は過ぎぬ。次の朝《あした》には、胸中僅かに今一たび相見んの願を存ずるのみなりき。われは再びさきの狹き巷《こうぢ》に入り、晝猶暗き梯を上りぬ。鎖《とざ》されたる戸をほと/\と打叩けば、腰曲りたる老女《おうな》入口に現れて、貸家見に來たまひしや、檀那がたの御用には立ち難くや候はんといふ。今まで住みし人はと問へば、きのふ立ち退《の》き候ひぬ、何かは知らず、火急なる事ありと覺しくて、いとあわたゞしく見え候ひぬ。われ。行方をば知り給はぬか。老女。旅にとは申しゝが、いづくにかあらん。パヅア[#「パヅア」に二重傍線]、トリエステ[#「トリエステ」に二重傍線]、フエルララ[#「フエルララ」に二重傍線]などにや候はんと、答へもあへず戸を鎖したり。直ちに劇場に往きて見れば、これも鎖されたり。近隣の人に聞けば、きのふ打留《うちとめ》なりきといふ。
 アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]はいづくにか之《ゆ》きし。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]なかりせば、彼人は不幸に陷らで止みしならん。否、彼人のみかは、我も或は生涯の願を遂げ、即興詩人の名を成して、偕老《かいらう》の契《ちぎり》を全《まつた》うせしならんか。嗚呼、絶ゆる期《ご》なき恨なるかな。
 友なるポツジヨ[#「ポツジヨ」に傍線]おとづれ來ていふやう。何といふ顏色ぞ。恐しき巽風《シロツコ》もぞ吹く。若しその熱き風胸より吹かば、中なる鳥の埃及《エヂプト》人の火紅鳥《フヨニツクス》ならぬが、焦がれ死《じに》するなるべし。野にゆきては茨《いばら》のうちなる赤き實《み》を啄《ついば》み、窓に上りては盆栽の薔薇花《さうびくわ》に止《と》まりてこそ、鳥は健《すこや》かにてあるものなれ。わが胸の鳥の樂を血の中に歌ひ籠《こ》めて、我におもしろく世を渡らするを見ずや。殊に詩人たらんものは、庭の花をも茨の實をも知り、天上の※[#「さんずい+景+頁」、第3水準1−87−32]氣《かうき》にも下界の毒霧にも搏《はう》つ鳥を畜《たくは》へでは協《かな》はずといふ。我。是《かく》の如く詩人を觀んは、卑きに過ぐるには非ずや。友。基督は地獄に下りて極惡の幽鬼をさへ見きと聞く。天の澄めると地の濁れると相觸れてこそ、大事業大制作は成就すべけれ。否、かくてはわれ汝が爲めに説法するにや似たらん。われはさる説法のためにこゝに來しにはあらず。われは市長《ボデスタ》一家の使節なり。おん身の伺候を懈《おこた》ること三日なりしは、ロオザ[#「ロオザ」に傍線]に聞きつ。何といふ亡状《ぶじやう》ぞや。疾《と》く往きて荊《いばら》を負ひて罪を謝せよ。但し懈怠《けたい》の申譯もあらば聽くべし。われ。此二日三日は不快の爲めに門を出ざりき。友。そは拙《つたな》き申譯なり。他人は知らず、我はそを諾《うべな》はざるべし。さきの夜|樂劇《オペラ》に往きしは何人なりけん。しかも劇場は、かの頻りに艷種《つやだね》の主人公たりしアウレリア[#「アウレリア」に傍線]が出づる劇場なりしならずや。されどおん身もかゝる路傍の花の爲めに頭《つむり》を痛めしにはあらじ。兎まれ角まれ、けふの午餉《ひるげ》にはおん身を市長の家に伴ひ行かでは、我責務の果し難きを奈何せん。われ。今は包み隱さで告ぐべし。わが暫く市長を訪はざりしは、世のさかしらの厭はしければなり、市長の娘の美くて、カラブリア[#「カラブリア」に二重傍線]に廣き地所を持てるを、わが彼家に出入する目的物なるやうに言ひ做《な》すものあればなり。友。其噂は珍らしからず。カラブリア[#「カラブリア」に二重傍線]の地所は知らず、マリア[#「マリア」に傍線]が美しきは人も我も認むるところにて、おん身がその崇拜者の一人なるをば、われとても疑はざるものを。われ。崇拜とは過ぎたり。むかし我が愛せし盲《めしひ》の子に姿貌《すがたかたち》の似たればこそ、われはマリア[#「マリア」に傍線]に心を牽《ひ》かれしなれ。友。マリア[#「マリア」に傍線]が目も拿破里《ナポリ》なるをぢの治療にて、始て開《あ》きしものと聞けば、盲ひたる子に似たりといはんも、その由なきにあらねど、我には別に解釋あり。戀は固《もと》より盲なるものなり。その戀の神なるアモオル[#「アモオル」に傍線]をこそ、むかしおん身は見つるならめ。今おん身の心のマリア[#「マリア」に傍線]に惹かるゝは、戀の神の所爲なれば、人の噂は遠からず事實となりて現るゝならん。われ。否、マリア[#「マリア」に傍線]はさて置き、何人をも我は終身|娶《めと》らざるべし。友。そは又|輒《たやす》くは信じ難き豫言なり、おん身にふさはしからで我にふさはしかるべき豫言なり。好し、さらばわれ君と誓はん。おん身若し我に先《さきだ》ちて妻を
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