W然《さんぜん》として四邊《あたり》を射るさま、室内|貧窶《ひんく》の摸樣と、全く相反せり。圖するところはヂド[#「ヂド」に傍線]に扮したるアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が胸像なりき。氣高《けだか》く麗《うるは》しきその面輪《おもわ》、威ありて險《けは》しからざる其額際、皆我が平生の夢想するところに異ならず。我視線は覺えずすべりて、壁間の畫より座上の主人《あるじ》に移りぬ。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は面を掩ひて、世の人の我を忘れし如く、おん身も今は我を忘れて、疾く行き給へといふ。われ。否、われ爭《いか》でか行くことを得ん、爭でか此儘に行くことを得ん。おん身は聖母《マドンナ》の惠を忘れ給ふか。聖母はおん身を救ひ給はん、我等を救ひ給はん。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]。おん身は衰運に乘じて人を辱《はづかし》めんとはし給はざるべし。むかし交らひ侍りし時より、おん身の心のさる殘忍なる心ならざるを知る。さらばおん身は何故に、世擧《よこぞ》りて我を譽め我に諛《へつら》ふ時我を棄てゝ去り、今ことさらに我が世に棄てられたる殘躯《ざんく》の色も香もなきを訪《とぶら》ひ給ふぞ。われ。情なき事をな宣給《のたま》ひそ。我|爭《いか》でかおん身を棄つべき。我を棄て給ひしは、我を逐ひて風塵の巷《ちまた》に奔《はし》らしめ給ひしは、おん身にこそあれ。かく言はゞ、おん身は我を自ら揣《はか》らざるものとやし給はん。さらば只だ我を驅逐せしものは我運命なり、我因果なりとやいはん。此詞|纔《わづか》に出でゝ、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]はその猶美しき目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》り、ことばはなくて我面を凝視し、その色を失へる唇はものいはんと欲する如くに動きて又止み、深き息|徐《おもむ》ろに洩れて、目は地上に注《そゝ》がるゝことしばらくなりき、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は忽ち右手《めて》を擧げて、緩《ゆるやか》にその額《ぬか》を撫でたり。一の祕密の神とおのれとのみ知れるありて、此時心頭に浮び來りしにやあらん。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は再び口を開きぬ。我は君と再會せり。此世にて再會せり。再會していよ/\君が情ある人なることを知る。されど薔薇は既に凋《しを》れ、白鵠《くゞひ》は復た歌はずなりぬ。おもふに君は聖母《マドンナ》の恩澤に浴して、我に殊《こと》なる好き運命に逢ひ給ふなるべし。今はわれに唯だ一つの願あり。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]よ、能くそを※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》へ給はんかといふ。われ手に接吻して、いかなるおん望にもあれ、身にかなふ事ならばといふに、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]、さらばこよひの事をば夢とおぼし棄て給ひて、いまより後いついづくにて相見んとも、おん身と我とは識らぬ人となりなんこと、是れわが唯だ一つの願ぞ、さらば、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]、これより善き世界に生れ出でなば、また相見ることもあらんとて、我手を握りぬ。苦痛の重荷に押し据ゑられたる我は、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が足の下に伏しまろびしに、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]徐《しづ》かに扶《たす》け起し、すかして戸外に伴ひ出でぬ。我は小兒の如くすかされて、小兒の如く泣きつゝ、又來んを許し給へ、許し給へと繰返しつ。戸は、さらばといふ最後の一こゑに鎖されて、われは空しく暗黒なる廊《わたどの》の中に立てり。街に出づれば、その暗黒は屋内《やぬち》に殊ならざりき。神よ。おん身の造り給ふところのものゝ中に、かゝる不幸もありけるよと、獨り泣きつゝ我は叫びぬ。此夜は家に返りて些の眠をだに得ずして止みぬ。
 翌日《あくるひ》はわれアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が爲めに百千《もゝち》の計畫を成就《じやうじゆ》し、百千の計畫を破壞して、終には身の甲斐《かひ》なさを歎くのみなりき。嗚呼、われは素《も》とカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野の棄兒なり。羅馬の貴人《あてびと》は我を霑《うるほ》す雨露に似て、實は我を縛《ばく》する繩索《じようさく》なりき。恃《たの》むところは單《た》だ一の技藝にして、若し意を決して、これによりて身を立てんとせば、成就の望なきにしもあらず。されども技藝の聲價、技藝の光榮は、縱令《よしや》其極處に詣《いた》らんも、昔のアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が境遇の上に出づべくもあらず。而るにそのアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が末路は奈何《いか》なりしぞ。假に彩虹の色をやどしつゝ飛泉の水の、末はポンチニ[#「ポンチニ」に二重傍線]の沼澤に沈み去るにも似たらずや。
 思慮はたゞ
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