燕怐sやせぎす》を尋ね給ふか、檀那は別に御用ありての事なるべければ、案内《あない》しまゐらせん、されどこれも歸らんは一時間の後なるべし、そが上に人に問はるゝことなき女なれば、出でゝ御目に掛かるべきか、覺束《おぼつか》なしとつぶやきぬ。好し、さらば一時間の後の事にすべければ、こゝにて我が來んを待てと契《ちぎ》り置きて、我は岸邊に往き、舟を雇ひて、何處をあてともなく漕ぎ行かせつ。
我心緒はいよゝ亂れに亂れぬ。只だ心中に往來《ゆきき》する切《せち》なる願は、今一たびアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]と相見て、今一たびこれに詞をかはさんといふことのみ。嗚呼、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]はまことに不幸なりき。されど我はその不幸を救ひ得べき地位にあらざりしを奈何せん。指す方もなき水上の逍遙ながら、痛苦に逐《お》はるゝ我心は、猶船脚の太《はなは》だ遲きを覺えぬ。
一時間の後、舟を初の岸に繋《つな》げば、老僕は早く劇場の前に立ちて待てり。引かるゝまゝに、いぶせき巷《こうぢ》を縫ひ行きて、遂にとある敗屋《あばらや》の前に出でしとき、僕は星根裏の小き窓に燈《ともしび》の影の微かなるを指ざしたり。僕は先に立ちて暗き梯《はしご》を登りゆくに、我は詞もあらでその後に隨ひぬ。僕は戸外の鈴索《れいさく》を牽《ひ》いたり。内より誰《た》ぞやといふは女の聲なり。マルコオ、ルガノ[#「マルコオ、ルガノ」に傍線]と名告《なの》ると共に、戸はあきて、我等は暗黒なる一室の中に立てり。聖母《マドンナ》を畫けりと覺しき小幅の前に捧げし燈明は既に滅《き》えて、燈心の猶|燻《くゆ》るさま、一點の血痕の如し。忽ち頭の上に戸の軋《きし》る音して、覺束なき火の光洩れ來しとき、我は側に小き梯《はしご》あるを認めつ。御尋《おたづね》の女はあれにといふ老僕の手に、些の銀貨を握らすれば、あまたゝびぬかづき謝して、直ちに戸外に出で去りぬ。わが最後の梯を登りゆくとき、一人の女の小き絹の片《きれ》にて髮を裹《つゝ》み、闊《ひろ》き暗色の上衣を着たるが入口に現れて、あすの名題や變りし、蹶《つまづ》き給ふな、マルコオ[#「マルコオ」に傍線]と云ひつゝ迎へぬ。我はつと室内《へやぬち》に進みぬ。
我はアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]と相對して立てり。あな、おん身は何人ぞ、何の爲に此には來ましゝと、驚きたる女主人は問ひぬ。我は一聲アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]と叫べり。暫し我面を打まもりし主人は、再びあなやといひもあへず、もろ手もて顏を掩《おほ》ひつ。何人にもあらず、昔の友の一人なり、むかしおん身の惠にて、あまたの樂しき時を過し、あまたの幸福ある日を送りしものなり、何の爲めにか來べき、唯だ今一たび相見んの願ありて來つるのみといふ我聲は恥かしき迄震ひぬ。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は靜に手を垂れて頭を擧げたり。肉落ちて血色なく、死人の如き面なれど、これのみは年も病もえ奪はざりけん、暗黒にして、渡津海《わたつみ》のそこひなきにも譬へつべき瞳は、磁石の鐵を吸ふ如く、我面に注がれたり。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]、かくて御身と相見んとは、つや/\思ひ掛けざりき。同じ憂き世の山路なれど、おん身はそを登る人、われはそを降る身なれば、相見て又何をかいふべき。疾《と》く行き給へと口には言へど、つれなき涙は※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》に餘りて、頬《ほ》の上に墮《お》ち來りぬ。われ。そは餘りに情なし。われはおん身の今不幸なるを知りぬ。むかし一言《こと》の白《せりふ》、一目の介《おもいれ》もて、萬人に幸福を與へしおん身なるを。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]。幸福は妙齡と美貌とに伴ふものにて、才《ざえ》と情との如きは、その顧みるところにあらざるを奈何せん。われ。おん身は病に臥し給ひきとは實《まこと》か。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]。病はいと重く、一とせの久しきにわたりしかど、死せしは我容色と我音聲とのみなりき。公衆は此二つの屍を併《あは》せ藏せる我身を棄てたり。醫師《くすし》はこの死を假死なりとなし、我身は果敢《はか》なくもこれを信じたりき。我身は舊に依りて衣食を要するに、平生の蓄《たくはへ》をば病の爲めに用ゐ盡しぬれば、彼死を祕して、詐《いつは》りて猶ほ生きたるものゝ如くし、又脂粉を塗りて場に上ることゝなりぬ。されど流石《さすが》に人を驚《おどろか》さんことの心苦しくて、わざと燈燭の數少き、薄暗き小劇場に出づるにこそ。おん身の記憶に存じたるアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は早や死して、その遺像は只だかしこの壁にありといひぬ。われは此詞を聞きて、向ひの壁を仰ぎ看しに、一面の大畫幅あり。枠《わく》を飾れる黄金の光の、
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