痰ュて、聲はマリブラン[#「マリブラン」に傍線]の如くなりきとぞ。されど今はしも薄落《はくお》ちたり。こはかゝる伎《わざ》もて名を馳せし人の常なり。暫くは日の天に中《ちゆう》するが如き位にありて、世の人の讚歎の聲に心惑ひ、おのが伎《わざ》の時々刻々|降《くだ》りゆくを曉《さと》らず、若し此時に當り早く謀《はかりごと》をなさゞるときは、公衆先づ其演奏の前に殊なるところあるを覺ゆべし。かゝるなりはひする女子の習として、財を獲ること多しといへども、隨ひて得れば隨ひて散じ、暮年の計をおもはねば、その落魄もいと速《すみやか》なり。君のこの女優を見給ひぬといふは、羅馬にての事にやありけん。われ。然り。其頃面を見ること二三度なりき。紳士。さらば變化の甚しきを覺え給ふならん。人の噂には、四五年前に重き病に罹《かゝ》りてより、聲はたとつぶれぬといふ。その人の爲めにはいと笑止なる事ながら、聽衆の過去の美音を喝采せざるをば、奈何《いかん》ともすべからず。いざ、昔のよしみに拍手し給へ。われも應援すべしとて、先づ激しく掌《たなぞこ》を打ち鳴しつ。平土間《パルテエル》なる客二三人、何とかおもひけん、これに和したるに、叱々と呼びて、この過當の褒美にあらがふもの少からず。女王はこの毀譽《きよ》を心に介せざる如く、首を昂《あ》げて場を下りしに、紳士見送りて、我等はトロヤ[#「トロヤ」に二重傍線]人なりきとつぶやきぬ。(原語「フイムス、トロエス」は猶|已矣《やみなむ》と云はんが如し。)
代りて場に上りしは、此曲の女主人公にして、これに扮せるは二八ばかりの女《をみな》なりき。色好む男の一瞥して心を動すべき肉《しゝ》おき豐かに、目《ま》なざし燃ゆる如くなれば、喝采の聲は屋《いへ》を撼《ゆるが》せり。此時むかしの記念《かたみ》は我胸を衝いて起りぬ。羅馬の市民のアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の爲めに狂せし状《さま》はいかなりしぞ。いにしへの帝王の凱旋の儀をまねびつる、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が車のよそほひはいかなりしぞ。わが崇拜の念はいかなりしぞ。さるを今はこの尋常《よのつね》なる容色にすらけおされ畢《をは》んぬ。あはれ、薄倖なるベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は身病み色衰ふるに及びて君を棄てしか。さらずば、君は始より眞成《まこと》にベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]を愛せざりしか。君が唇のベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]の額《ぬか》に觸れしをば、われ猶記す。君|爭《いか》でかベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]を愛せざらん。思ふにかの無情《つれな》男子《をのこ》は君が色を愛して、君が心を愛せざりしなり。
アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は再び場に上りぬ。老いたるかな、衰へたるかな、只だ是れ屍《しかばね》の脂粉を傅《つ》けて行くものゝみ。われは覺えず肌《はだへ》に粟《あは》生ぜり、われもアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が色に迷ひし一人なれども、その才《ざえ》の高く情の優しかりしをば、わが戀愛に蔽《おほ》はれたりし心すら、猶能く認め得たりき。縱令《よしや》色は衰ふとも、才情はむかしのまゝなるべし。かへす/″\も惡《にく》むべきはベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]が忍びて彼|才《ざえ》彼情を棄てつるなる哉。我心緒は此不幸なる女子を憐み、彼無情なる友を憎むが爲めに、亂るゝこと麻の如くなりき。傍なる紳士は、我面色の土の如くなるを見て、いかにし給ひしぞ、不快なるにはあらずやと問ひぬ。此|棧敷《さじき》の餘りに暑き故なるべしと答へつゝ、我は起ちて劇場の外《と》に走り出でぬ。
胸中の苦悶は我を驅《か》りて、狹きヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の巷《こうぢ》を、縱横に走り過ぎしめしに、ふと立ち留りて頭を擡《もた》ぐれば、われは又|前《さき》の劇場の前に在り。時に一人の老僕ありて、入口に貼りたるけふの名題を剥ぎ取り、代ふるにあすのをもてせんとす。われは進みて此|僕《しもべ》の耳に附き、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の宿はいづくぞと問ひしに、僕は首《かうべ》を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して我顏を打目《うちま》もり、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]と宣給《のたま》ふか、そはアウレリア[#「アウレリア」に傍線]の誤なるべし、けふもアウレリア[#「アウレリア」に傍線]が部屋をばおとづれ給ひし檀那達いと多かりき、宿に案内しまゐらするは易けれど、歸るには些の隙《ひま》あるべしと答ふ。われ、否、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]なり、けふ女王の役を勤めし人なりといふに、僕は暫し目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りて、訝《いぶか》しげに我を見居たるが、さてはあの
前へ
次へ
全169ページ中153ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
アンデルセン ハンス・クリスチャン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング